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映画の研究 1.2

月光24号 掲載

 ここで再度話を整理しておくと、まず我々は「映画」を「現実そのもの」ではないが、それに準じるものとして了解している。(「準じる」とは、場合によってはそれを「現実そのもの」と考えることもあるといったような意味合いである)しかし一方で我々は、そのような 存在を知っていながら、たとえば実物の機関車を「非現実」と見誤り、その前に飛び出して身を危うくしたりは決してしない。ということは、我々は「現実」には現実固有のリアリティがあることを――ここが肝心なのだが――「知覚を通じて」知っているのである。これを 言い換えれば、「我々(主観)は、あるがままの現実(客観)を、どのようにして現実そのものとしてあるがままに認識することができているのか」となるが、実はこれは、西洋哲学が紀元前の昔から今に至るまで論議を繰り返してきた問題であり、しかもその答は、「不可能」 という衝撃的なものであった。我々は、現実を現実そのものとして知覚し(知覚された「現実」を「表象」と言う)、それを受け入れている、つまり、現実とその表象は常に一致していると思っているが、そのことに根拠はないというのである。(補遺4)
 ただしこの答には、「主客二元論的枠組を維持する限り」という前提があるのだが、だとしたらそんな「枠組」など外してしまえばよい……ということにならないのは、「枠組」は「意識」のことだからである。
 このことは、色々な人が色々に説明しているが、たとえば、「意識」を一定のコードでプログラムされたコンピュータとしてみよう。このコンピュータはインプットされた情報にしたがって答を出すが、この答が対象に正しく突き当たっているかどうかを自分で検証する ことはできない。何故なら、もし、コンピュータがコードの正しさを検証しようとしたら、メタコード(コードを検証するための上位のコード)が必要であるが、このメタコードをインプットしたら、今度はこのメタコードの正しさを検証するさらに上位のメタコードが 必要になるからである……。(『現象学入門』、竹田青嗣、NHKブックス参照)
 人間の意識(心)が自己意識の枠組から外に出ることができないのも、同じ理屈である。キルケゴール風に言えば、意識とは自己意識であって、その自己は、自己自身に関わる関係であり……となって、結局、人は自己意識(という枠組)の外に出ることは決してできな い。だから、「枠組」なのである。そしてこの枠組が主客二元論に由来しているというのは、「世界(客観)」はそれを認識する人の意識(主観)に現れるもの以外ではあり得ないからである。
 この主客二元論の哲学は、遥か紀元前の古代ギリシャ時代に「無知の人」を自称し、「知」を疑うように若者にすすめて為政者に疎んじられ、殺されたソクラテスにはじまり、その弟子プラトンが真と偽からなる世界観として完成させた。これを比喩で言い表わしたのが有名な 「洞窟の比喩」で、我々は洞窟の中に幽閉された囚人のようなもので、光によって明瞭に現わされた真実の世界に背を向け、その光が作る「影」(表象=現象)を真実と思って暮らしているというのである。(もしプラトンがシネマトグラフの乱舞する影を見たら、 「真と偽を混同させるもの」といって強く非難しただろう)このプラトンの二元論を近代的装いに改めたのがデカルトの心身二元論である。

 デカルト(一五九六〜一六五〇)はフランスの高等法院官の父親のもとに生まれ、カトリックの神学校で学んだが教えられた内容には全く不満であった。
 ただ数学のみ、「確実で明証的である」と言って好んだが、その数学が機械的技術に使われるのみであることを不思議に思った 。卒業後、ヨーロッパ各地を武者修行のように試練を求めて放浪するうち、全く新たな学問を自分一人の力で打ち立てようと決意し、それまで当たり前のこととして受け入れてきたことも、すべて疑うことを自らに課した。
 デカルト曰く、「疑い得るものはすべて」疑う。
 これを「方法的懐疑」というが、その結果、今、眼前の対象を疑って見ている「我」、つまり、デカルトその人自身もデカルトは疑いの目で見なければならなくなった。以下の文章は、有名な『方法序説』の中の、熟読玩味すべき記念碑的一節である。

 ……かくて我々の感覚が我々を時には欺く故に、私は感覚が我々の心に描かせるようなものは何ものも存在しないと想定しようとした。次に、幾何学の最も単純な問題についてさえ、推理を間違えて誤謬推理をおかす人々がいるのだから、私もまた他の誰とも同じく 誤り得ると判断して、私が以前には明らかな論証と考えていたあらゆる推理を偽なるものとして投げ捨てた。そして最後に、我々が目覚めている時に持つ総ての思想がそのまま、我々が眠っている時にもまた我々に現れ得るのであり、しかもこの場合はそれら思想のどれも 、真であるとは言われない(夢の思想には存在が対応しない)ということを考えて、私は、それまでに私の精神に入り来った総てのものは、私の夢の幻想と同様に真ならぬものであると仮想しようと決心した。 (『デカルト』、中央公論社・世界の名著、野田又夫監修)

 要するに、今疑っている自分が《夢の中の自分》ではないと言い切れないことに気づいたのであるが、しかし、ここまで至った時、劇的に事態は反転する。夢の中であろうとなんであろうと、「総ては偽だと考えている自分」の存在だけは否定できないのである。
 こうしてデカルトは、あらゆるものを疑った後、疑い得ない存在として「考える私(コギト)」を発見した。しかしデカルトはこの「発見」に止まらなかった。疑い得ない存在としての「考える私」もまた、「私の疑い」の中にいることを否定できないからである。
 デカルトは、懐疑の果てにまた懐疑の罠に捕われてしまったのだが、デカルトが並みの哲学者と異なるのは、ここにデカルトの目的である「新しい学問の堅固な 土台」を見い出したのである。
 疑っている自分は、自分が不完全だから疑っているのであるが、それは完全なるものを知っているから、自分が不完全であると思うのである。しかるに、完全なるものとは「神」以外にあり得ないが、完全なるものが不完全なものから生まれることはない。したがって 、不完全な私の中の完全なるものについての観念は「神」から与えられたものである他ないが、そのような神の恩恵は神の「善」という性質からして、万人に共有されているはずである。したがって、人が明晰判明に思考したもの――具体的にはデカルトが青年時代に唯一確かな道を 教えてくれる学問として認めていた数学的知性のことである――は、神がそれを与えたのだから「完全」であると考えてよい。
 こうしてデカルトは、人間によって明晰判明に(数学的に)思考されたものは、客観的実在を正しく認識していると考えてよいと結論付けたのである。これがデカルトの心身二元論である。ここで、「心」とは数学的知性のことであり、「身」は、その数学的知性によって「延長」、 すなわち、広がり(これがデカルト空間=数学的座標である)の中に「正しく」見い出されるのである。こうしてデカルトは、自身の言葉通り、「新しい学問の堅固な 土台」を築くことに成功したのである。

 しかし改めて考えるに、その「正しさ」に関する判断は「神の存在証明」に依存しているのであるから、「神」を持ち出さなければ、デカルトは依然として「疑い」の中にいることになる。ということは、二元論的世界観に不可避的に伴う成立条件、すなわち「主観が示す世界」と「客観が示す社会」の一致を確証 することは原理的に不可能であるということ(それ故に、世界は主客二元論的に了解するしかないのである)をデカルト自身認めているのである。
 では、デカルトが「神」を持ち出したことは無意味なことだったのだろうか? 実際、デカルトが「神」を持ち出したのは、ガリレオが宗教裁判にかけられるなどの当時の世情を慮ってそうしたと いう側面もあるにちがいない。だとしたら、そんなデカルトの処世上の思惑などは無視して、「真偽の判断は神に依らずとも理性で行うことができる」とすればいいのではないのか? 実際、そんな風に言う人もいるのだけれど、しかし、人間の理性のみでは「疑い」の中から脱 出することのできないことは、「方法的懐疑」がすでに明らかにしたことなのである。
 ここで話が元に戻り、「神」が再度姿を現わす。それが「デカルト的神」である。つまり、「デカルト的神」は同時代人のパンセが批判したように、たしかに「方便」なのだけれど、「心身二元論的枠組」から「現実」を救い出すべくデカルト自身が設けた抜け道でもあった。
 そのことに気づいたのが、先に 補遺として触れた現象学の祖フッサール(一八五九〜一九三八)であり、いわゆる「フッサール現象学」はここからはじまる。文芸評論家・哲学者の竹田青嗣は次のように書いている。

 まず、彼(デカルト)の「夢」の譬えには、人間を考えるコンピュータだとすると、このコンピュータは決して自分のコードの正しさを判定できないと言う認識論上の原理が、つまり、《主観/客観》は原理的に「一致」しないという原理(補遺5)が、 明解な形で示されているのである。コンピュータがコードを検証できないように、人間も自分の見ているものがそのまま正しい「現実」であるかどうかを検証できないわけだ。デカルトが、「神」という判定者を、「一致」を保証する切り札として持ち出さなければならなかった のはそのためだ。
 フッサールはデカルトのこのような考え方に、神という切り札なしに問題を解くための重要な糸口を見い出した。何より肝心な点は、デカルトが「夢」の譬えによって「懐疑」を極限化した上で、その後に唯一「疑えないもの」を取り出そうとしたことである。このことはフッサール にとって何を意味していたろうか。
 デカルトは最後には「神」という客観の保証人を持ち出した。その理由は、彼が根本では《主観/客観》図式にとらわれていたからだが、しかし方法的懐疑によって一切を疑った時、彼はその場面では、《主観/客観》図式から考える限り問題は必ず円環(堂々回り)すること、 ただ主観の場所を徹底するところにのみ問題を解く糸口がある、ということを直感していたのだ。フッサールはそう考えた。(『現象学入門』、竹田青嗣、NHKブックス)

 ただ闇雲に枠組の外に出て主客の一致を確かめようとするのではなく(それは不可能である)、何故、人間は《主観》の中に閉じ込められているにもかかわらず、世界の存在、現実の事物の存在、他者の存在などを「疑い得ないもの」として確信しているのか――それ故に、 我々は日々の日常を安んじて受け入れているのであるが――その「主観の内部だけで成立する確信の条件」を確かめるところに二元論問題の核心があるというのである。

 ところで、フッサールと同時代の人にオランダの数学者フランツ・ブラウアー(一八八一〜一九六六)がいる。ブラウアーは「デカルト的神」によってその正しさを保証された古典的数学に対し、「人間的数学」を唱えたことで有名であるが、その説明がフッサール現象学に ついて竹田青嗣の説明するそれと似ているので、簡単に紹介してみたい。

 人間は神のような全知全能の絶対者ではないが、そのような絶対者がいるものと想定し、その絶対者の立場で何が正しいか判断することができる。――これが先に説明した通り、デカルトが「方法的懐疑」によって見い出した考え方であり、このもとで数学は大発展を遂げたの であるが、これに対しブラウアーは、「数学もまた人間によって考えられ、行われる以上、その《正しさ》を人間が判断できるはずである」と主張し、その立場を「直観主義」、それから考案された論理を「直観論理」と自ら名づけた。(直観は数学的概念や対象、あるいは推論 を思考の中から「直接」に取り出すことを意味している)
 ブラウアーは直観論理を説明するため、古典論理の中でもアリストテレス以来決して疑われることのなかった「排中律」(「命題Aは真か偽かのどちらかである」というもの)に目標を定め、これが成り立たない場合もあることを示すために円周率πの「数値問題」をしばしば 例にあげた。周知の通りπは無理数であるから、3,1415926535…と無限に続いて決して終わらない。したがって寿命に限りのある人間は――代替わりで数え続けたとしても――πの数値のすべてを知ることはできない。しかし、一方でπの数値は「世の初めから」決まっている ことを人間は知っている。したがって人間はπを知っているとも言えるし、知らないとも言える。つまり、排中律は成立しない!
 これに対し、大数学者ヒルベルトが「数学者から排中律を奪うことはボクサーから拳を奪うようなものだ」と激怒し、二人の間に論争が始まった。この論争は十年続いたので、「十年戦争」と呼ばれているが、最後は両者とも矛をおさめる形で終わった。つまり、人間的数学と 古典的数学のいずれが真でいずれが偽かということを決めることはできなかったのである。では、やはり排中律を否定したブラウアーが正しかったかというと、そうとも言えない。この「十年戦争」のややこしさは、まさにフッサールが苦闘した「主客問題」のややこしさに酷似 しているのである。しかし、似ているのは、それだけではない。たとえば、数学基礎論で世界的に有名な竹内外史氏は、次のように書いている。

 数学基礎論では……数学を創る基本から考えます。したがって、論理が一つの問題の中心になります。その論理ももう一度初めから考え直そうとします。このような試みの代表的なものとして、ブラウアーの直観論理があります。
我々が普通に考える論理、すなわち古典論理は、いわば神のような全知全能の絶対者を考えて、すべての命題がその絶対者のところで真か偽かはっきり判定されるという立場で考えています。(中略) しかし、ここでの真偽は、人間の世界とは無関係なところにあるという不満もないではありません。人間が考える以上、真偽といえども人間の行為に結びついたものでなければならない。そういう考え方もあるわけです。ところで、真とか偽とかに結びついた人間の行為は、 まず証明するとか確認するということだといってよいと思います。したがって、真という概念の代わりに、証明する方法をもっている、または確認する方法をもっている、と言い替えた時にできる論理が直観論理です。したがって、直観論理は人間の論理、あるいは人間の心 の論理といってもよいわけです。(『数学的世界観』、竹内外史、紀伊国屋書店)

「真という概念の代わりに、確認する方法をもっている」のブラウアー主義と「主観の内部だけで成立する確信の条件を確かめるところに問題の核心がある」のフッサール主義はつまるところ、同じことを言っているのではないか? しかし、私が特に注目したいのは、竹内氏が続けて書いた次の箇所である。

 直観論理の中で一番本質的で深い内容をもった論理概念は、「ならば」という論理概念です。これは、直観論理が人間に結びついている以上、時間とか、人間の経験とか知識とかに結びついた概念なので、必然的に深い内容の概念になります。 一方、「ならば」は、ある場所から次の場所に行くという運動の概念に結びついているとも考えられます。直観論理は心の行為に結びついた論理ですが、心の行為もやはり空間的な運動とどこかに共通の基盤をもっていると思われます。数学では空間とか連続的な運動とかを扱う 学問はトポロジーと言われ、連続の概念の入った空間のことを位相空間といいます。不思議なことに、直観論理を数学的に取り扱うことと、位相空間を数学的に取り扱うこととはほとんど同じことになっています。もちろん、この事実は、前に言った、人間の心の行為と 人間の空間的行為の結びつきにあるのでしょうが、そのことがもっと正確にはどんなことを意味するのか、私には本当に知りたいことの一つです。(同上)

 竹内氏は、数学的認識が人間的認識であるなら、それは、人間が「動く」ことと関係がありそうだと言っているのである! つまり、先に、静止写真と動く写真(映画)の違いについて、映画の場合、映像が「動く」ことで、「そこに何かがある」と脳が判断すると書いた。 映画の本質は「動く」ことにある、なんてことは誰もが言うことだけれど、しかし、それが本当には何を意味するのかということについては、誰もほとんどわかっていないのだと、前章末尾の文章を、あえてくり返し、私は言いたい。

補遺4 ゲーデルの不完全性定理のこと。「いかなる知識にせよ、体系化された知識には必ず限界がある。すなわち、その体系の中で表現される問題で、その体系の中では真とも偽とも判定されないものが存在する」(『数学的世界観』)というのである。 通俗的な言葉で表現すれば、「自分自身がおかしくないことは、自分自身では証明できない」(同上)ということであるが、ゲーデルはこれを数学的に《証明》したのである。
 
補遺5「主観と客観は原理的に一致しないという原理」という文章は、「世界(客観)の真の姿は、我々の主観が見ている世界(表象)とは違う」といった風に理解されそうであるが、もちろんそうではない。現象学風に言えば、世界(客観)は「見られるもの」として意識( 主観)に現れるのであるが、そうして意識に現れた「客観」は、主観にとっていわば「見えている通りに見えている」ので、そこに矛盾はない。つまり、主観に現れる世界と、客観的世界は常に一致しているが故に、その「客観」の「見え(apperence)」が正しく対象に合致しているか否か、《原理的》にわからないのである。 ゲーデルの不完全性定理のバリアント風に言えば、「現実が無矛盾である限り、その現実を体験している本人には、その現実が本当か嘘かを判断することはできない」(『ゲーデルの不完全性定理』、吉永良正、講談社ブルーバックス)のである。
 しかし、ゲーデルより四百年近く昔の人で、「本質的には中世人」であるデカルトが、どうやってこのようなややこしいことに気づくことができたのだろうか。該当する文章を探すと、たとえば、『世界論』に次のように書かれている。「よく知られていることであるが、言葉というものはそれが表示する 事物と何の類似性も持たないのに、やはり我々にこれらの事物を思い浮かべさせるのであり……もし、人間の取り決めによる以外には何の意味も持たない言葉というものがそれとなんの類似も持たない事物を我々に思い浮かばせるに足るのだとすると、自然もまたある信号を設け ていて、この信号それ自体は我々が光について持つ感覚と似たものを何一つ持たなくても、光の感覚を我々に持たせるのだということがどうしてあり得ないであろうか」があげられるかもしれない。あるいは、『省察』に、「いわば私の外に存在するものからとられたと私がみなすところの観念が外物に 似ていると私が考えるのは……言うまでもなく、私が自然によってそう教えられたからであると思われるが、それはただ、私はある自発的な傾向によってこれを信じるようになったということを意味するだけであって、それが真であることが何か自然の光によって私に明示された ということを意味するのではない」とある。あるいは、こんな風にも言っている。「イメージが関係を持つ対象の総ての様々な性質を魂に感覚させる手段をどのようにして与えるか、ということだけが問題で、そのイメージがそれ自体として、どのように似ているかは、まったく 問題ではない」(『屈折光学』)。これは、たとえばリンゴならリンゴが、単なる赤い玉ではなく、リンゴとして見えるのは何故かということを考えるべきだといっているのだろう。だとしたら、ゲーデルとは大分発想が違いそうだが、しかし、リンゴがリンゴとして見えるとい うことは、リンゴをリンゴという「集合」として見るということであり、そう考えると現代数学と発想においてつながるところが生じ、ゲーデルとの接点を見つけることができないでもない。いずれにせよ、「私が見ているものは、自然が私にそう見せているだけで、それが真で あるかどうかわからない」という発想は、曖昧模糊とした自然との一体感の中で生きる我々日本人にはなかなかわかりにくい理屈である。私事であるが、ルネッサンス後期に描かれた、天使が地上に舞い降りる様子を描いたかなり大きな(縦三〜四メートル程)絵画の実物を美術館で見たことがある。それは私でも名前を知っているような有名画家の手になるものであったが、空中に浮ぶ天使に、まるでワイヤーアクションで吊るされているような嘘臭さしか感じられず、非常な意外感をもったことを覚えているが、今思うに、その「嘘臭さ」は「見ること」 がその対象から分離されることで成立していることの必然的結果であり、むしろそこ(嘘臭さ)にこそ西洋絵画(文明)の本質を見るべきなのかもしれない。

戻る 続く