草の園(8)格闘

中村祐之
イラスト・山口喜造

【これまでのあらすじ】
 室生家の三男である美貌の青年、一人が家出した。劇作家として名声をはくしている父の艸人は怒りと失望のあまり部屋に閉じこもってしまう。長男蓮司の妻である筥子は、夫の無気力に絶望しながら生活しているが、一人の家出とともに室生家も自分も歯車が狂って来ている事に気がつく。
 あの男のせいだ。室生家に関係するすべての人々が、あの男のせいで、大さな渦に巻き込まれている。
 まだ若い役者の卵の尚彦を突然、奪い去った人気演出家来栖瓏である。来栖と一緒に仕事をしている作曲家であり尚彦たちの従兄でもある正円は、来栖の中にある疑惑を感じる。
 一方、家出をした一人をかくまう正円の父、公成も、同じように来栖に興味を示す。
 一体来栖とは何者なのだろう。
 血と甘美なヴァイオリンのメロディーを背景に物語は陰惨な結末を予感させつつ、進んで行く……。

【主な登場人物】
来栖瓏=演出家。 室生艸人=老劇作家。 室生蓮司=艸人の長男、陶芸作家。 筥子=蓮司の妻。 尚彦=艸人の二男、役者。来栖に主役に抜擢される。一人=艸人の三男。ヴァイオリニスト。 室生公成=艸人の弟。数奇者として京都に在住。室生正円=公成の一人息子。音楽家。来栖と一緒に仕事をしている。
 異臭が漂っている。
 庭から部屋の中に胸が悪くなるような悪臭が忍びこんで来た。それは死んだ尚彦の温室から臭ってきた。ひどく生臭く一度染み込んだら消えないような粘っこい臭気だった。
 室生家のすべてがひどい臭いに被われていた。来る日も来る日も悪臭は古い井戸から沸き上る汚水のように、深い所で腐った汚物が息を吐くように漂っていた。
 尚彦が死んで以来、あれ程彼が手塩にかけて育てた花がすっかり枯れてしまった。が、奇妙にもまるで血のように毒々しい色だけを残したまま、ぬめりとした樹液を床一面に吐き出しているのであった。上から吊した花が力なく項垂れてポ
タリポタリと雨のような紅色の糸を引くように雫を落としている。
 温室の中には数秒と居られなかった。
 悪臭で目眩がした。
 だが、蓮司はそこに立ってぼんやりと上を眺めていた。
 両手をだらしなくガウンに突っ込んだまま何を見るでもなく廃屋の中に立っている。髪はクシャタシャに乱れ、顔は窶れて髭が伸びている。まるで幽閉きれた一囚人のように蒼ざめて生気がなかった。
 雫が落ちて髪にかかってもまるで気がついてないようである。目は黄色に変色し、口唇はカサカサに渇いてめくれ、皮膚は黒ずんで艶がない。
 蓮司はよろけながらポケットから酒壜を取り出すと一息に口に含んだ。口の端から褐色の酒が零れた。
 「結局、この家は滅び去るのだ。慌てることは何もない。もともと決められた荒筋の通りに進んでいる劇のようなものだ。
 ひとりづつ死んでいく、そうだろ、え、筥子、そうじやないのか!」
 足が縺れて彼はそこへ倒れた。大声で筥子を呼んだ。
 だが、その声に応える者は誰れもいなかった。妻の筥子は尚彦の葬儀のあと何かと急しく留守がちであった。手伝いの者もこの悪臭に閉口してなるべく昼間は家を空けていた。
 が、ひとりだけ蓮司の声を聴いている者がいた。一
 艸人である。が、仮にに蓮司の罵声が奥の部屋まで届いたとしても、はたして艸人にその意味がわかったかどうか怪しいものであった。
 艸人は死んだように眠っていた。いや、眠らされていたのである。医者の薬によって昏々と眠っていた。
 目を醒ますと彼はひどい発作を起こし、もともと常人よりも強い体力をした艸人は、制止しようとした者たちを振りほどいて暴れた。出入りの書生たちが彼の躯を二〜三人がかりでようやく取り押え、医者は安定剤をうってとりあえず眠らせることにした。
 そんなことを繰り返しながらもう数週間が過ぎていた。
 蓮司は泥酔して温室から出ると中庭のプールの縁によろけて倒れた。夏のうちは何回か水を汲み変えたが、暑さの盛りを過ぎた今は濁って澱んでいる。黄色の陽を鈍く映して、水面は鉛色に曇って底が見えなかった。
 蓮司はばんやりと水面を見つめていた。
 『あの時から俺は死んでいたんだ』
 彼の目が血走った。
 『俺のこの手で尚彦や一人を殺そうと思ってていた頃から、邪悪な死の劇は始まっていたんだ。』
 胃の底から烈しい嘔吐がこみあげてきた。口の中に込み上げて来たものが妙に粘っこいのに一瞬寒気がした。
 次の瞬間思いきり口から吐き出された液がプールに飛び散った。この数日、ほとんど何も食べていないので吐くべきものは何もないはずであった。
 水に浮かび上がったものはどす黒い血の塊だけだった。蛇の縞模様のような斑の波紋になって浮かんだ。
 蓮司は怖れた。
 死に対する怖れではなく、このプールが血で満ち溢れているような気がしたからである。
 「あの時……」
 蓮司はかすかに震えた。
 「そうだ、あの時に俺は確実に弟たちを殺そうと思っていた。」
 水の底に沈んでいた黒い塊が浮び上がって心を重くした。
 あの日、彼はまだ幼ない二人の弟と庭で格闘技の真似事をしていた。弟たちよりひとまわり躯の大きかった蓮司は簡単に尚彦や一人を投げふせた。
 しかし、それは普通の子供の戯れにしてはひどく真剣味をおぴていた。仮りにそばで見ていた者がいたならば、その異常な熱気に気がついたであろう。
 冷酷な残虐さをおぴた闘いだった。大人たちの闘いよりも、もっと純粋なもののために闘っているような、生々しい傷口を開いていた。
 蓮司は初めに一人を芝生に倒した。続いて尚彦が恐ろしい勢いで飛びかかって来た。
 尚彦はあらん限りの力をこめて蓮司の胸にかぶりついた。その躯を両手で振りほどくと、蓮司は力いっぱい尚彦を持ち上げて放り投げた。
 彼の軽い躯は宙に浮いて庭の端に転った。躯中にすり傷ができた。ようやく尚彦は起き上って蓮司に笑いかけた。
 それは年長の兄の力に対する畏敬と親しみの笑いであった。
 が、その微笑は突然かきくもった。
 まるで意志を失った巨人のように蓮司が再び尚彦に挑みかかってきたからである。それは子供の間のルールを無視した残忍な狂気をおぴた犬のようであった。
 「止めてよ、お兄きん。負けたよ。」
 尚彦は冗談でやっているものと思って躯を捩った。
 が、蓮司はその言葉にはまるで耳をかさずに尚彦の華奢な躯をギシギシと絞めつけた。まるで小さな鳥が両羽をもがれて、首だけを一所懸命に左右に振ってなんとか脱けようとしている風であった。
 尚彦の顔がみるみる蒼ざめていった。
 「止めてよ……。兄さん、苦しい。」
 口唇が紫色に変った。
 蓮司は無表情に小鳥の首を絞めた。
 「止めて、止めて!」
 幼ない一人が兄の手に噛みついた。
 あまりの痛さに蓮司は大声をあげて思わず尚彦の躯を離した。
 怒りに狂った蓮司は一人の頬を思いきり殴りつけて彼をプールに放り投げた。
 かなり広いローマ風のプールは刷鉢型になっていて、浮草が生い茂っている。
 一人は背がたたないので両手をパシャバシャと空しく動かした。浮草の枝に足をとられて水を呑んだ。
 「兄さん、一人が死んじゃうじやないか。」
 尚彦は急いで一人を助けだそうとした。
 その時、蓮司の顔にどうしようもない絶望の色が浮んだ。およそ子供の顔とは思えない程残酷な、老人の持つあの醜いくらいの無力感であった。
 次の瞬間、蓮司は尚彦も水の中に突き落とした。
 「助けて!」
 一人の声がしだいに弱々しくなっていった。
 蓮司は、二人の弟か水草に足をとられ、水を呑みながらもがいている姿をじっと眺めていた。まるで死に瀕した金魚を眺めているように、目をまるくして最後の瞬間を待っていた。
 子供たちの悲鳴を開いて母屋から家人か飛び出して来た。女たちはその凄じい光景を見て卒倒した。叫び声をあげて人を呼んだ。
 若い庭師たちが池に飛び込んで子供たちをやっとのことで救いあげた。尚彦はかなり水を呑んでいて血の気を失つていたが意識はしっかりしていた。
 しかし、一人はまったく意識が戻らなかった。
 旅先で急を開いて駆け付けた艸人は一人の姿を見てその場に崩れ落ちた。
 なんとか助けてほしいと医者に懇願した。
 夜中、酸素吸入か続けられ、艸人はずっとそばに付き添っていた。ようやく二日目の朝になって一人は意識を取り戻した。
 「よかった。」
 艸人は人前で涙をみせたことなめったになかったが、この時ばかりは当たりかまわずに泣いた。
 結局、そのことは子供同士の遊びの不始末ということで、大事に至らなかったこともあって、しばらくするうちに口にされなくなった。
 尚彦も一人も蓮司の気性の荒さのためのちょつとした行き過ぎと言うように思って以後ふれることを避けた。
 が、その時から篭室生家の明るさがしだいに翳りをおぴていった。
 少なくとも蓮司はその事件を境にして人が変った。今までは、外に出て活発に飛びまわり、躯も健康で人一倍体力に恵まれていたのが、学校も休むようになり部屋に閉じこもり、兄弟とも口をきかないようになった。
 ただボーとしていることが多くなり、何かを虚ろに考えている日々が多くなった。
 翳のように家の中を音もなく歩いていた。
 ある夜、艸人が仕事をしている部屋に蓮司はすっと入って来た。
 「お父さん。」
 蓮司は闇の中に声をかけた。目にいっっばいの涙をためていた。
 「なんだ。」
 艸人は原稿の筆を止めずに応えた。
 「話しがあるんです。この前のことで。」
 蓮司は槌る様に艸人を見つめた。
 「それについてはもう何も言う必要はない。」
 艸人は厳しく応えた。
 「でも。」
 蓮司は躙(にじ)り寄った。
 「なぜ、ぼくを叱らないのですか。なぜそうやって黙っているんですか。」
 艸人は応えなかった。
 「本当のことを知っていて、なぜぼくを責めないのですか。」
 蓮司は泣きだした。
 「お前の本本当の気持ちなど私は知らない。これ以上仕事の邪魔をするな。」 艸人は怒ったように手を休めて、息子の顔を眺めた。そこには絶望にうちのめされて憔悴した男の顔があった。それは子供の顔にしてはあまりにも疲れきっていた。
 「あの日、ぼくは本当に弟たちを殺そうとしたんだ。できれはあのまま水の中で溺れて死んでしまったらどんなにょかったろうと思った。心の中で何回も繰り返し繰り返し思っていたんだよ。」
 「よせ。」
 艸人の手が蓮司の頬をうった。蓮司は頬を押えて倒れた。
 「お前は自分の弟たちが可愛くないのか。これからは二度とそんなことをロにするんじゃない。」
 艸人は興奮して怒鳴った。
 「でも、お父さんは一人を愛している。そうじゃないですか。」
 「何……〕
 思わずを艸人は怒りで蓮司を殴りつけようとした。蓮司は身を縮ませて続けた。
 「一人ばかりに目をかけている。ぼくや尚彦は何処かに忘れられている。」
 艸人はじっと耐えていた。
 「そんな事はない。お前たち皆、平等に育てているつもりだ。」
 「いいえ、ぼくはそうは思わない。」
 再び蓮司の瞳が異様に燃え上った。
 「一人だけを愛しているんですよ。」
 「ふぎけた事を言うな〕
 艸人は震え、思わず原稿が飛び散った。
 が、実の所その指摘は艸人の心をひどく波立たせた。
「お前は弟たちを殺していったい何が噂
しいのだが
 艸人は怒りでうち震えながら睨んだ。
 蓮司の目か青く燃え上つた。
 「お父さんが好きだからですよ。自分のものだけにしていたいんです。」
 艸人は青ざめた。
 「愛しているんです。そのためにはあとの二人は邪魔なんです。」
 蓮司は虚ろな目をして、何回もその言葉を繰り返した。
 結局、尚彦はなぜ自殺したのだろうと蓮司は思った。
 あれ程、人気役者の行末を約束され、その栄光の途中での弟の突然の死は蓮司にはひどい皮肉のように思えた。
 いつまでも自分の死の決断をしない己れへの奇妙な苛立ちを覚えるのだった。
 「俺には自殺する勇気すらなくなっている。」
 子供の日のあの事件以来、彼は生きることへのなんらの期待すら持てなかっ。
 何を目標として生きて行くかかまったく浮んで来なかった。
 他の青年たちが何ものかに情熱を燃え上がらせるような青春の時代に彼はただ
無為に背を向けて、部尾の中に閉じこもって音楽を聴いているだけだった。
 深い澱みのようなチェロの音色に彼は耽溺していた。扉一枚の陽の当つた向こうの世界なぞ彼には無縁であった。
 彼の目に触れる世界は火の消えたようなすでに終ってしまったものでしかなか
った。
 すべては暗澹とした森のように灰色に沈みこんで、生ある息吹きが感じられなかった。手に触れるものすべてが触れた途端に、冷たい命のない大理石に変ってしまうように冷々としていた。
 低い唸りの連続から急に大きな管楽器の音が心響いた。
 『トリスタンとイゾルテ』の曲が部屋に響いた。
 この永遠の愛に結ばれた二人の死を悼(いとお)しんだ、悲しみの旋律が彼の心そ深い憂鬱の森の中に誘った。
 生きているうちは結ばれることなく、死んだのちに緑色の蔓草になって絡みあう二人の愛。
 『この世ではついに結ばれることはなかった……か。』】
 蓮司は一息に酒を呑んだ。    。
 『結局、俺は幽閉されていたのだ。ずっと父によって今日までこの家の中に閉じこめられていた。』
 彼は力なく笑った。
 艸人はあの事件のあとしばらくして尚彦を京都の家に預けた。そして、ヴァイオリンに秀いでた才能のあった一人をイタリアへ留学させた。
 才能を伸ばすためとは言え、その裏にはこのまま蓮司と他の二人を一緒にさせておいては、いつかまた間違いが起きるかもしれないという配慮からであったのだろう。
 蓮司の望みどおり、彼は父親と二人きりでこの家に居ることになった。しかし、皮肉にもそれは蓮司にとって一番苛酷なことだった。
 あの日以来、艸人は蓮司から遠去かった。自分のもとへは決して寄せつけず厳然とした態度で彼を見つめた。
 その頃から蓮司は陶芸に異常な情熱を燃やし始めた。
 それは土の焼成したものが何か死の淵にあってそれを静かに受け入れているように感じたからであった。彼の焼いたものには他の誰れもが作れない透明感があり、人を拒絶する冷たさが潜んでいた。
 それは作者の懊悩を絶望感を漂わせていた。
 「だがあの茶碗だけは超えられない。」
 蓮司は胸が苦しくなった。
 それは尚彦が死ぬ前に持って来たものであった。
 「兄さん、久しぶりだね。」
 快活な青年らしさを残した尚彦は明るく話しかけた。
 「なんの用だ。」
 蓮司は薪を窯にくべていた。
 「これを渡してくれって頼まれたのさ。」
 「何んだ。」
 「何んだか知らないけど、うちの先生から頼まれたんだよ。」
 尚彦は小さな木箱を手渡した。
 蓮司はそれを開けてみた。
 芙蓉の型取りをした白磁の茶碗であった。
 「これは!」」
 蓮司は絶句した。
 一点の非のうち所もない透きとおった白茶碗。形の崩れもなくゆったりとした縁。高台の清々しさが全体をひきしめている。ふくらみが手の中にしっくりとおさまる。
 それは今まで彼が見てきた名器の中でも群を抜いた逸品の白茶碗だった。
 「それを先生が兄さんにあげてくれって言っていた。」
 何も価値を知らない尚彦は蓮司の呆然とした姿を不思議そうに眺めた。
 「これを俺に…」
 蓮司は震える手でそれを触った。
 「ずいぶんと兄さんの事を知っているみたいだったよ。」
 尚彦は妖しげな笑いを残すと、忙しいからと言ってぐに引き帰した。
 蓮司はその夜、悪い夢にうなされた。数日微熱が続いて床についた。幾日かたって窯を開けてみると不気味なことにすべての陶器かひび割れていた。
 それはまるであの白磁が彼の作品をあざ笑うかのように吹き壊したような気がした。
 蓮司は両膝をついてそこに力なく座りこんだ。
 「魔物だ……。」
 不吉な予感がした。その白磁を見ていると心が引き込まれて自分を見失ってしまう。
 「あの茶碗の中にすべてのものが吸いこまれてしまう。俺の魂までもが。」
 急に自分の作品が色褪せて見えてきた。
 何度もその白磁を壊そうと思っては思いとどまった。
 蓮司はそれを公成に譲った。
 「これを何処で手に入れた。」
 公成は一目見るなり目をむいて見入った。蓮司はその出先を言わなかった。
 「これ程の名品はもう何処にも残ってないと思っていたが…。値かつけられない。いくらで売る?」
 「金はいりません。私の所に置いておきたくないのです。」
 「殺ろしい。人の心を投すような恐ろしさだ。」
 公成が一言も声を出せない程のものをあの男はなぜ惜しげもなくよこしたのか その時の蓮司には忖度(そんたく)することはできなかった。
 が、その茶碗の内を覗いていると時として底がかすんで無限に連去かって行く
ように思えた。
 それは、まるであの謎めいた男の心のように深い淵であると、蓮司は思った。
 「なんですって、兄さんが!」
 一人は思わずよろけた。
 目の前がかすんで真黒になった。あわてて公成のまわりに寄り添っていた男が一人を抱きかかえた。
 「嘘だ。信じられない。」
 「そう思いたいだろうが本当のことだ。もう半月も前のことだ。」
 一人にはいったい何が起こったのかわからなかった。尚彦が自殺したことが信じられなかった。目の前に尚彦の優しい笑顔が浮び上って遠のいた。
 「なんで兄さんが自殺なんかするんですか。あんなに張り切っていたのに……。」
 「わしにも分からない。ただ噂ではひどく疲れていたらしい。」
 「疲れていた……。」
 「そう。ひどく何かに怯えて憔悴していたと言うことだ。」
 一人の特に一つの疑惑が起った。
 『まさか、あの来栖邸での事件が負担になったのでは――』
 一人は最後に見た来栖の残忍な目の光を思い出した。
「東京に帰ります。すぐにここを出して下さい。」
 一人はあわてて身支度を整えようとした。
 「待て、一人。」
 公成は太い声で止めた。
 「お前が行ってももうあそこにはなにもない。尚彦の骸はもう墓に納めた。」
 「なぜもつと早く話して下さらなかったのですか。」
 一人は目に涙をうかべて公成を責めた。
 「お前の気持ちはよくわかる。私がわざと知らせなかった。騙しているのが辛かった。」
 「じゃなぜ……。」
 「お前の躯と心がまだ充分に治っていないからだ。それに…。」
 「それに? 何ですか。」
 「お前がむこうの本家に帰ったらもっとひどい光景を見るからだ。」
 「もっとひどい事…何ですかそれは。」
 「今は話せない。だが、もとはと言えばそれもお舞前の身勝手な振る舞いが招いたことかもしれない。」
 一人はハッとして泣くのを止めた。
 そう言われれば、もともと一人の身勝手な行動が多くの人に迷惑をかけている。それが来栖への一人の熱心な恋心のためであることが、なおさら彼の気持ちをさいなんだ。それはどう考えても許されることではなかった。
 公成の心の中はもっと複雑な気持ちであった。
 何かもつと邪悪な陰謀が渦巻いている。
 室生家を破滅させるような大きな筋書きに自分自身も巻きこまれているような気がした。
 このまま一人を戻らせたら、その黒い渦の中に呑み込まれて溺れてしまうような気がした。
 それに艸人の狂態を一人には見せない方がよいとも思った。
 「あれをもっと別の場所に移した方がよいかもしれないな。身のまわりに話相手になるものを付けておけ。」
 公成は翳の男にそっと指示した。
 「少しお話がありますがよろしいでしょ
うかい
 その男は低く声をかけた。
 「なんだ。」
 「あの男のことです。」
 「あの男? 来栖のことか。」
 「そうです。あの男の出生が分かりました。」
 「ほう、あいつのか、それは誰れだ。」
 男は躊躇った。
 「どうした……早く話してみろ。」
 「綾子様でございます。」
 「綾子……」
 「そうです。あなた様の実の妹、室生綾子様です。」
 「なんだと!」
 公成は驚きのあまり全身が総毛立つのが分かった。

 その男はじっと蓮司を見つめていた。
 まるで追いつめた獲物をどうやって射貫くかをじっくりと考えている狩人のように息を殺していた。
 蓮司は酔っていた。彼の個展の会場の真中にだらしなく腰をおろして半ば目を閉じてののしっていた。
 『俺の創りたいものはこんなものじゃない。あの白磁のような完璧さ、死んだような美しきを秘めた茶碗なのだ。』
 心の中で蓮司は自分自身を繰り返し嘲った。
 「酔っていますね。」
 その男は蓮司に声をかけた。氷のように冷たい声であった。
 「そのとおり、私は酔っているのです。しかも、永久に酔えば醒めないような飲物を呑んで、このように私は酔っているのです。」
 蓮司はまるで道化役者のようにふしをつけて応えた。
 「お忘れになりましたか、あの海のよく晴れた、あの暑かった日のことを、あなたは喉が乾きまし、ね、お父さん、たしかそうではございませんか。あなたとわたしは同じ一つの杯で、あの飲物を飲みました、ね、お父きん……」
 黒づくめの男は喉の奥の方から不気味
な程低い声で科白の続きを喋った。
 「誰れだ……」
 蓮司はその男の科白に一瞬蒼白になった。男はかまわずに喋った。
 「自分のあまりにも非情な仕打ちにイゾルデはそれ以後獣の衣を身にまとうようになり、トリスタンはわぎと酔って狂人のまねごとをしている……」
 男はさすように蓮司を見つめた。この謎めいた言葉が蓮司だけに深い傷を与えているのをじっと楽しんでいるようだった。
 「あなた一体誰れなんだ。」
 「来栖、来栖瓏と言います〕。」
 男は低い声で名をなのった。蓮司の中で何かが火花を放った。
 「あなたが……」
 蓮司は呂律が回らない口で喋った。
 「いつかは会うような予感がしていた……」
 「私の持っていた茶碗を一度献上させていただいた事があったが……」
 来栖は目の奥底をキラ光らせ
 「あれは私の叔父の所に置いてあります。大変素晴しい品です。」
 「気に入っていただけて大変嬉しい。今日は又一つ良い品が見つかりまして見ていただこうと持ってきました。」
 来栖は包みをひも解いて取り出した。
 「これは……」
 蓮司は気を失いそうになった。血が騒いで焔となり、目の前が莫赤に染まった。
 「大井戸茶碗です。銘は斑鳩と言います。」
 蓮司はその大ぶりの茶碗をじっと見続けていた。放心して魂がぬけたようであ
った。
 「いかがですか……」
 「あなたは残酷な人だ。私の最後の息吹きまでも消そうとしている。」
 蓮司の中でピーンと張りつめていた糸が切れた。あまりにも完璧な名品を前にして陶芸家としての焔かすべて吸いこまれて消えて行くのが分かった。
 「私の作品のほとんどを買っていく人がいると聞いていましたか、それはあなたでしたか……」
 来栖は応えなかった。
 「あの作品はどうしたのですか?」
 「壊しました。」
 来栖は無表情に言いきった。
 「そうですか。」
 蓮司は怒る気にはなれなかった。
 「ようやく私にも分かりかけてきましたよ。なぜ尚彦があなたに惚れて、自殺したかも……。」
 「君にとっては、尚彦や一人がいなくなった方が良かったのじゃないのか。」
 蓮司は蒼ざめた。
 この男は何もかも知りつくした上でこの俺に近づいて来たのだ。
 彼はそれを否定する気力さえ残っていないことが分かった。
 「なぜあなたは、この家に近づいて来たのだろうか? いや、それを今さら訊いても遅いかもしれない。」
 来栖は茶碗を置いたまま静かに去った。
 残された蓮司は薄茶色の灰色がかったそれをじつと見つめていた。
 「恐ろしい。恐ろしいほど完璧だ。」
 蓮司の目が緋色に変わった。
 突然、彼は大声で何言か叫ぶと棒をふり上げて会場に陳列してあった作品を壊
し始めた。
 見るも無残に作品は粉々に飛び散った
 係員が止めに入つたが強い力ではね飛ばされた。
 「もっと熱く、もっと熱く燃やすのだ!」
 蓮司はわめき散らしながら作品を砕いた。目からは血のような涙が頓をつたっ
てこばれた。
 それはまるで恋の炎の中で身をもがきながら愛しい人を探し求めて彷徨
っている狂気のトリスタンの姿に似ていた。
                  
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