蕁草の園(7)格闘
中村祐之 |
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【これまでのあらすじ】 室生家の三男である美貌の青年、一人が家出した。劇作家として名声をはくしている父の艸人は怒りと失望のあまり部屋に閉じこもってしまう。長男蓮司の妻である筥子は、夫の無気力に絶望しながら生活しているが、一人の家出とともに室生家も自分も歯車が狂って来ている事に気がつく。 あの男のせいだ。室生家に関係するすべての人々が、あの男のせいで、大さな渦に巻き込まれている。 まだ若い役者の卵の尚彦を突然、奪い去った人気演出家来栖瓏である。来栖と一緒に仕事をしている作曲家であり尚彦たちの従兄でもある正円は、来栖の中にある疑惑を感じる。 一方、家出をした一人をかくまう正円の父、公成も、同じように来栖に興味を示す。 一体来栖とは何者なのだろう。 血と甘美なヴァイオリンのメロディーを背景に物語は陰惨な結末を予感させつつ、進んで行く……。 【主な登場人物】 来栖瓏=演出家。 室生艸人=老劇作家。 室生蓮司=艸人の長男、陶芸作家。 筥子=蓮司の妻。 尚彦=艸人の二男、役者。来栖に主役に抜擢される。一人=艸人の三男。ヴァイオリニスト。 室生公成=艸人の弟。数奇者として京都に在住。室生正円=公成の一人息子。音楽家。来栖と一緒に仕事をしている。 |
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おれは見た、
傾いた太陽が不可思議な恐怖に染まり、 遠い古代の劇に出る役者のような、紫に、 じっと凝って動かない長い連なりを照らすのを、 波濤が遠く転々と鎧戸のおののきを拡けるのを――。 ※酔いどれ船で ほの暗い船室の一隅で頚の禿げた詩人が不気味な声で詩を朗読している。 その声が床をつたってうつろに響いた。 「酔いどれ船の唄だな。」 来栖はぼんやりと椅子に寄りかかりながら、なつかしい恋人の声を聴いたように、その唄を口ずさんだ。 が、同時に背中に寒いものを感じた。 「この詩はあまりにおれの運命に似ている。」 おもわず来栖は船室の彼方に座っている公成の顔を見つめた。 「あの男か今日、この俺を招いたのはやはり俺の心の底をうかがおうとする魂胆なのだろうか。」 来栖はドロドロとした流れの中に進み出た船のように気持ちが沈みこんだ。 ひょつとしたら公成は自分に罠をかけ始めているのではなかろうか……。 だが、その来栖の冷たい視線を知ってか知らずか、公或は広い船室の中央に居座って先程から浴びるように酒を飲んでいた。 そばに侍らした少年に葡萄の皮を剥かせている。彼のまわりには名の知れた紳士たちがへべれけになりながら好みの少年を裸にして、肌の感触を楽しんでいた。 蒸せ返るような熱気の中で、酒の匂いが部屋中に漂よい、インド産の強い香料が燻かれ煙草の香りが入り交って、一種猥雑な雰囲気を作っている。 グツグツと煮えたぎつた大鍋の中には、ありとあらゆる獣の臓物が投げ込まれて煮こまれている。どろりとした湯気が獣の脂をとかして、部屋中の壁をべたつかせていた。 船室を改装して大広間になった会場のいたる所に山のように積まれた料理があった。鶏肉、羊、牛肉、豚とがまじりあって赤い肉の塊となって毒々しく色づけされている。その肉の山に登っては手づかみでむさばり食べる姿は、まるで餓鬼が腐った肉を奪いあいながら食べあう光景のようであった。大きな樽が用意されその中に青い葡萄を一杯に入れ、数人の若者が足ですり潰している。それを手の乳にまぜてウォッカで割った酒があっちこっちでまわし飲みされている。 この世で味わえる最後の悦楽。誰れもが理性を失っている。飲んで気が狂う程食べて、吐き出してはまた飲む。延々と繰り返されて終ることがない宴。 来栖はぼんやりとこの悪魔の饗宴を眺めていた。彼のそばにもそばかすのある少年が侍っている。従順に主人の命令だけを守る犬のようにぴったり来栖に寄りそっている。 公成のまわりには数匹の犬が口を半ば開いて牙をむきだして坐っていた。好色でで残忍な目をしている。天井には嘴の鋭い鳥がまるで禿鷹のように目を乱々として光らせている。ちょっとのすきでもあろうものならさっと舞い降りてとがった爪で肉を引き千切って行く。 原生林に迷い込んだように暑苦しく胸が悪くなる光景である。青と黄色の鮮やかな羽をした鸚鵡が耳を裂くような奇声をあげている。 密林を思わせる天井の梁をゆっくりとビロードの肌をした巨大な錦蛇が躯をくねらせて通りすぎて行く。床には細長い赤い舌をチョロチョ出しながらはいずり廻っている毒蜥蜴がいる。 すべて目につくものが悪趣味で人の頭を狂ゎせる。 蝋燭の炎が人の影を大きく揺り動かしている。まるで悪魔どもが車座になって人を引き裂きながら、喉から迸る血を啜りあっているような凄惨な光景である。 客だけは腰のまわりを布で被っているが他の少年たちはすべて裸身であった。 中年の好色な男たちが貪るように白い肌を求めあっている。まるでゴツゴツとした岩を清らかな青い海水が洗っているような光景である。 少年たちは夢でも見ているかのように素直に身をまかせていた。うっとりと詩人が唄いあげる楽園の光景にでも酔いしれているように……。 「パイテイカ(愛する少年よ。)」 来栖は少年を呼んだ。 「お前たちは何処から連れて来られた。」 少年は微笑んだ。 公成によって厳しく客とそのようなことを喋るのを禁じられているのだろう。 口を閉ざしてただ微笑んでいるばかりであった。 今日、招待された客にはそれぞれ若い美しい男の子があてがわれた。ここにないものは女だけであった。 来栖にはそれが気が楽であった。こうやって何も答えずに人形のようにひっそりと寄りそっている少年の肌に触れている快楽は他に比べるものがない。 船が沖に出たのだろうか、次第に船室が左右にゆっくりと揺らぎ始めた。 その時、赤い炎の下に正円の顔がおぼろげに浮び上った。 「あの男もやはり呼ばれていたのか…」 饗宴も酣(たけなわ)になった中で、もう一人、醒めている人間がいた……。 公成から奇妙な招待状が来てから来栖の気持ちは落ち着かなかった。 「酔いどれ船への誘い」 と手紙には書かれている。 年に一度だけ彼が好事家を招待してあやしげなパーティーを催していることは人づてに聞いていた。 昼間の社交界、言うなれば表のパーティーが一様に着飾った紳士淑女たちの虚栄の集まりであるとすれば、彼が開く深夜のパーティーは倦怠と退廃という倒錯した悪への誘いであった。 公成のパーティーはいうならば彼の政財界に対する力の誇示であり、招待された人はそれが一流の趣味人の証になることになった。 しかし、毎年繰り返されるこの秘密のパーティの中でも今年の趣向にはさすがの好事家たちも呆気にとられた。 パーティーを盛り上げたのはなんと言ってもその会場だった。 埋立地の突端にある埠頭に降り立った時、誰れもが思わず息を飲んだ。 まさに酔いどれ船に相応しい、アフリカ航路から帰って来たばかりとも思える程びっしりと錆ついて朽ち果てそうな貨物船が目の前に停泊している。 何年も修理されていないポロポロの船で、ところどころ穴が開いている。肺を患ったような病人のように、痩せ細った躯。骨がすけて見えそうに弱々しく、息をぜいぜい言わせて煙突から黄色い煙を吐き出している。 死臭と洒の悪臭を漂よわせて波に身を任せている難波船のような不気味さであった。 「まさに酔いどれ船だ。」 誰もがロを開けてそのまましばし立ちすくんだ。 『淑女の立入りはお断わり願います。』 と明記されている。 看板に屈強な男たちが腕を組んで上って来る客に目を光らせている。赤銅色の胸をあらわにむき出した男たちは、一様に目を見開いて不信な者を探しているようであった。 船室の九窓から帽子を被った栗色の髪をした可愛いい少年たちが白い歯を輝かせて、客たちを隠れながら見ている。 兎が帽子の中から顔を出したり引っこめたりしている、手品のような光景であ った。 「 「ねえ、何を考えているの?」 そばかすの少年が話しかけた。来栖は物思いから醒めた。 「酔っぱらっただけだ。」 来栖は自分の顔が少しばかり青ざめているのを少年に気づかれたのかと思い、酒を一息にあおった。 「どうも何かある。この芝居がかった余興には何かが潜んでいる。」 毒を含んだ視線がじっと来栖を闇の中から見つめている気配が分かった。 それは強く鋭く彼を射貫くような、秘密をあばく光のような視線だった。 あの日、一人が館から逮げ去って以来来栖はこの視線をずっと背中に感じていた。 絶えずこの俺を監視しているような目。 彼が後を振り返るとあっという間にかき消えてしまう。 恐ろしい殺気だ。 それがこの乱痴気パーティーの中にも感じる。 一体誰れだろう…。 彼は広い船室を一まわり見渡してふた。 公成は金色の大鹿のデュゴンで酒を浴びるように飲んでいて、目は虚ろだった。 彼ではない。すると―― 闇の中にひとりだけ白い服を着けた正円に目を向けた。彼は半分目を閉じて瞑想しているかのように坐っている。 正円かもしれない。しかし、この獰猛な獣のような視線はあいつのものではない……。あいつの目はもっと静かだ。静か過ぎて俺の心をかき乱す……。」 考えれば考える程、来栖は酔いが醒めてきた――。 急に場内に拍手が沸き上った。 部屋の中央に砂で盛り上げた舞台が出来上った。 屈強な背の高い青年が真中に進み出た。 一匹のドーベルマンが牙をむいてもう一つの扉から囲みの中に入って来た。 炎を吐くような赤い舌を垂れ下けてじ っと青年を睨んでいる。 頭か極端に小さい。頭蓋骨を皮膚一枚で被っていて目ばかりが異様に輝いている。これが猟犬というよりも人を殺すために飼育され訓練された犬であることが分かる。 喉の奥から絞り出したような唸り声が一層残忍さを与えた。自分の敵が何ものであるかを見究めようとしている。 青年は囲いの中央に立ったままうっすらと目を閉じて瞑想でもしているかのように微動だにしない。 それが却って辺りを異様な静けさに包みこんだ。 犬が頭を下げて土に鼻先をこすりつける。しかし、飛び出さんばかりに見開かれた両目は刺すように敵を見つめている。 犬の躯が小刻みに震えた。 距籠はほんの致メートルしか離れていないのに広大な砂漠の中で対決しているように渇いた空気が漂っている。 一瞬、青年の両眼がカッと開いた。 続いて声をあげる間もなく、犬が宙に躍り上った。 一秒の何分の一かの勝負だった。まさに目を疑う光景であった。 犬が後足で地を蹴って鈍い唸り声とともに空中に飛んだのと同時に青年の黒い影がそれよりもさらに高く舞い上った。 バキッという鈍い音が闇に響いた。 空中で二つの黒い体がぶつかりあった。 血が火花のように飛び散った。 「キヤー」 と返り血を浴びた少年のかん高い悲鳴が闇を切り裂いた。どす黒い血にまみれた犬の躯が床に落ちた。会場からどよめきの声が上った。 ほんの一瞬の闘いが生と死を分けた。 青年だけが何事もなかつたようにすっくと立ち上った。足の蹴りで犬の顔面を一発で崩してしまったのだろう。頭を血まみれにして醜く潰された犬の骸が足もとに転っていた。 「素晴しい。こいつはすごい。」 酔っぱらった公成がよろめきながら青年を祝福した。 「さあ、次はこれまた素晴しい格闘技をお見せしょう。」 響き渡る声で会場に集まった男たちに紹介した。 「格闘技は古代から男たちの本当の力くらベの競技。かく言う手前ども室生家でもこの格闘技が代々受け継がれている。 何んの道具も使わずに素手で組撃ちして相手を倒す。これこそ男の真の勝負…。」 公成りは芝居気たっぶりに満座に居並ぶ男たちを見まわした。 「この私もかつては少しばかり真似事をした覚えがあります。」 会場から爆笑が湧き起った。 「が、今はこれこの通り少しばかり太り過ぎて……」 自分の肥満した腹を突き出して見せた。 再び高い笑いが沸き上った。 「さて、今日の勇者は誰か、本当のアキレスになる者は誰か――。この若者と闘ってみる者はいないか……。」 公成は犬の血で染まったまま汚れをおとそうともしない青年を指きした。 場内はまた静かになってしまった。誰もが名のりを上げるのを躊躇った。 「ほう、どなたも希望者がいない。これは困った。今日の勝者にはこの世にも美しい少年を贈り物として差し上げるつもりです。」 金色の髪をした少年が舞台に上った。 優雅な白鳥のように少年は俯いたままじっと人々の視線をさけている。 男たちから溜息がもれた。 しかし、あの屈強な青年を倒して、少年を奪い取るだけの力は誰れにもなかった。 それでは、この少年に選んでもらおう。 公成は少年にそっと何事か囁いた。 彼は一瞬困惑した顔をしたが、やがて頷くと静かかに会場を廻り始めた。 誰れもが少年の掃名を受けたくないらしく、虫のように闇の中に姿を隠した。 だがひとりだけ少年を見すえたままで いる男がいた。 少年は来栖の前で立ち止った。来栖は彼の青い目を真正面から見つめた。 少年は白い指で彼を差した。 照明が一斉に彼を照らした。 黒い艶やかな毛をした高貴な獣がすっと浮び上ったように人々には映った。 「あれは誰れだろう?」 「あまり見かけぬ顔だ。」 「それにしても恐ろしくないのかな。」 あっちこっちで小声で噂しあった。 「これは、これは、大変な人を選んでしまったな。」 公成は大袈裟に言った。 彼は来栖を会場のすべての人間に紹介した。来栖は自分が光の中に昭らし出されていることに腹立ちを覚えた。そして、ようやくこの猿芝居めいたものが彼を陽の光の中に連れだす公成の罠であるように思えて来た。 しかし、もはや闘うしかここから出て行く方法はないように思われた。 「今日はわざわぎ私どもの粗末なパーティーにご出席いただきまして感謝しております。この趣向はお気に召しましたでしょうか。」 「危険がいっばい過ぎて悪酔いしそう。」 「あなたのような有名な演出家の仕掛けには足もとにも及びませんが…」 公成は口もとに笑みを浮べながら答えた。 「このまま闘わずにすますことは出来ないのか?」 来栖は身に付けていた物をすべて脱ぎ去りながら訊ねた。 「それはあなた自身のご判断にお任せしましょう。しかし、それはあなたの名誉になりますかどうか……」 「出口はどうやらなさそうだな。」 少年が来栖の顔と肩にオリーブ油を塗った。来栖は自分の退路が断たれていることに気がついた。 相手の青年は一糸纏わぬ姿で舞台に立っていた。来栖は黙って彼に手をさしのベて握手をした。 型通り、両肩と両首の後へそれぞれ手をまわして戦いの準備が整った。 「始め!」 公成の鈍い声が響いた。 わーと言う歓声が沸き上った。 相手の頭の後に手を掛けた瞬間に来栖は強い力で背中から放り投げられた。 軽い脳震盪を起こして何がどうなったのか判断がつかなかった。視界がぼやけて相手の顔がぼんやりと霞んでいる。口の中が切れて血があふれている。 また左肩に激痛が走った。青年の岩のような脚で房を挟まれている。 あまりの激痛に彼は声を上げて砂の上を転げまわった。 「ハハハ――」 会場から嘲笑まじりのどよめきが起った。 「早く立て、立って戦うんだ!」 観客は口々に野卑な罵声を彼に投げつけた。来栖はよろけながらぼんやりと上座にいる公成を見つめた。 あの男はおれと一人の事を知っているのだろう。おれに対する怨みをはらすための仕打ちなのだろうか。 来栖の裡でふつふつと邪悪な炎が燃え上った。 「俺の出口はやっばり殺して奪い返すことしかなさそうだ。」 来栖はようやく自分の力が躯に満ちて来るのを感じた。それはもう子供の頃から躯の奥底に潜んでいた刃のような残虐な力だった。 ビューと風をきって青年の両手が来栖の肩を鷲掴みにした。耳たぶが切れた。 その瞬間、来栖の顔が燃え上って噴怒の顔になった。 青年は思わず息を飲んだ。火炎を背にして牙をむき出した赤不動の顔がそこにあった。 恐ろしい力で来栖は青年の両腕をはずし肋骨から脇腹を両の手で掴みとるとぎりぎりと締め始めた。 背骨がキシキシと音をたてていまに折れそうに曲り始める。青年の上半身が真っ赤に脹れあがり、躯中の血管が充血した。 まるで大鷲が大蛇に巻きつかれて羽をバタバタさせているようである。青年は次第に翼を失って身動きできなくなった鳥のように空しく頭を振った。 ギリギリと青年の胴が螺子のように締まっていく。口から泡を吹いて、目が充血して白目をむいた。 この快感はなんだ まるで鳥の首を締めているように血が煮えたぎる。おれの躯の何処にこんな力があったのだろうか。 来栖は地就の底から湧き上るドロドロとした粘液を躯中に感じた。 若い男の目や鼻から不気味な音をたてて黒い血が吹き出した。がくっと首をたれて男は気を失った。 「そこまでだ!」 野太い声が響いた。歓声か一斉に沸き起こった。 来栖は呆然と立ちつくした。 まだ獲物を喰いたりない野獣のように目が光って血走っている。 「さあ、諸君。この勇者を称えようではないか。」 高らかに来栖の手が掲げられた。ふたたび場内は歓びの声が響き渡った。 その時だった。 赤い蓄蔵が舞台に投げられた。 そして暗闇の一角から痩身の青年が現われた。 「正円……」 公成の顔が驚きに変った。 「勝負はまだ終ってない。今夜はぼくが挑戦しよう。」 正円は白い服を脱いだ。 「なぜおれと闘う?」 「自分の胸に訊いてみたらいいだろう。」 火花が散った。 地獄から戻って来た亡者のような形相をした来栖にはもはや相手は誰でも良かった。 獰猛な声をあげて来栖は正円に挑みかかった。 白い肉と赤銅色の肉が絡みあって、がっちりと互いの肩を捉えて離さない。指が肉にくい込んで血が吹き出した。 来栖の顔は額が割れて血がしたたり落ちて肩まで赤く染まり、正円の胸を赤い 柘榴色に染めた。 二つの肉の塊りは力が互角なのか身じろぎもしない。 正円の肩を掴んで投げ飛ばそうとするが、かっちりと胴を絞められてそれが出来ない。互いに一歩も技を仕掛けられない。 まるでその死闘は二匹の蛇が互いに相手を尾から飲みこんで共食いをしている姿に似ていた。 「なぜ、おれと闘う?」 来栖は息を切らせながら訊いた。 「一人に何をしたんだ?」 「なぜそんな事を訊く?」 二人とも息をぜいぜい言わせて喋っている。 「あの子が家出したのは君のせいだと言うじゃないか。」 「それかお前に何の関係がある。」 「あの子に近づくのはよしてほしい。」 「なぜだ?」 「君がまわりに集めている連中のように半分廃人のようにさせたくないからだ」 来栖の顔がかすかに痙攣した。 「だが向こうからやって来たらどうしようもないだろう。」 彼は嘘ぶいた。 正円の両腕に思わず力が入った。苦痛で来栖の顔が歪んだ。 「これ以上、あの子に近づいたら今度はおれが本当に君の敵になるぞ。」 「愛しているのか?」 「…………」 「だが、おれはあの子の行方を何も知らないんだ〕 「一体何処へやったんだ!」 正円は突然大声を上げた。その瞬間、二人は両脇にバッと飛びのいて別れた。 互いに力の限界なのか肩で息をしながら相手を見つめている。 公成が進み出て二人の間に入ろうとした時であった。 客席の暗がりから何者かの影が公成めがけて走り寄って来た。 手にキラッと光るものが見えた。 「あぶない!」 来栖は公成を突き飛ばすとその黒い彰に体当りした。 その勢いで男は転倒した。手にしたナイフが宙に飛んで落ちた。 「書生!」 男は歯ぎしりして立ち上ろうとしたが脚の骨が折れたらしくその場に蹲った。 すぐさま屈強な男が刺客を取り抑えるとともに公成のまわりを固めた。 「あぶない所だった。君がいなかったら今頃はおしまいだったな。」 公成は来栖に手をさしのべた。だが、彼はそれには応えずに自分の額の血をぬぐった。 「今日は大事なところで勝負もつかないままになってしまったな。」 公成は気を取りなおして言った。 「この男はどうしましょうか?」 警護の男が訊ねた。 「どうせいつものチンピラだろ。この頃うるさく私を狙っている連中だ。」 「仕末しますか?」 「口を割らせろ。でなければ海に放り込んでおけ。」 公成は来栖と正円を呼んで話しかけた。 「この勝負は別の日の楽しみにしておこう。それにしてもお前が彼と闘うとは一体どうしたことだ。」 正円は黙って服を着ると闇の中に消えてしまった。 「ずっと昔になるが、こんな素晴しい戦いをした事があったよ。なかなか勝負がつかない。相手がすごく強かったな。まるで今の君のようだったよ。」 「誰なんだ?」 来栖は訊ねた。 「わたしの兄だよ。君も知っているかも知れないが室井艸人という劇作者だ。」 一瞬、躯の中を稲妻が走りぬけた。 公成の話かけた言葉によって起こったわけではなかった。 彼が以前から感じていたあの鋭い視線をすぐ間近に感じたからである。 来栖はその視線の主の顔を見た。 じっと来栖の顔を見据えてまばたき一つしない目。いくつもの修羅場をくぐり抜けて来た目だった。 目が異様に落ちがっしりとした体躯の男が公成にぴったりと寄りそうように立つている。 おそらく公成のもっとも信頼する男であろう。そばにいても自分の気配を消せる程静かで不気味な男。 「この男がおれをずっと見張†ていたのか。」 彼はその男を見返した。しかし身じろぎもせず逆に来栖を飲み込もうとでもするかのような底力をひめた目にぶつかった。 「という事は……この男に命令を出していたのは公成だったのか。」 来栖は相変らず笑みを浮べて話している公成の中にどす黒い陰謀が渦まいているのを感じた。 『早くおれの仕事を終りにしなければな らないな…。』 来栖は後もどり出来ない崖ぷちに立っている自分を見つめるのだった。 薔薇色の血 「ねえ、お父様。ちょっと居間に来られませんか?」 筥子は書斉の艸人に声をかけた。 「なんだ…」 この頃少しばかり落ちつきを取り戻した艸人は不機嫌に応えた。 「さっきから尚彦さんがテレビに出ているんです。今かかっているお芝居を中継しているんです。とっでも素敵ですわ。いつの間にか立派な役者になってきてますわ。」 「そうか…」 「もうすぐ終ってしまいますから、早く来られた方が…」 艸人の部屋からは何んの返事もなかった、筥子は一人で居間に戻って尚彦の芝居を見た。 若い親衛隊の少佐の役を演じている尚彦の顔が面画に大きく写し出されている。 いつの間にか顔にあどけなさがなくなつて、大人の顔つきになっている。頬が少しばかりこけているが却ってそれが胸をギュッと掴まれるように妙な男っぽさを感じきせていた。 黒光りするエナメルの帽子を深々と被り、両方の目をぎらつかせて戦いに破れた兵士たちに命令している。服は埃でうす汚れているが靴だけはきれいに磨かれている。 遠くで銃声が鳴り響く。 『少佐、ここはもう危険ですから撤退して下さい。』 下士官が彼に進言している。 『分かった。先に出発しろ。』 『少佐。一緒に出発して下さい。』 『おれはまだここで整理しなければならないことがある。先に行けこれは命令だ。』 下士官は敬礼をして靴をならして部屋を出て行った。近くで爆弾の炸裂する音が響き渡る。 少佐は上着をぬぐと、肩章と腕章を引きちぎつた。 白いシャツ一枚になると長くなった髪をかき上げた。テーブルの下から赤ワインを取り出すと一息に口にはこんだ。 『今日までおれの生きて来たことは何んだったのだろう。』 ぼんやりと遠くを見やった目にはもはや生気は感じられない。 尚彦の顔がまた大写しになった。 うっすらと頓に赤みがさしているが口唇は紫色で色褪せている。 「美しいわ……。」 筥子は思った。 彼女はその時尚彦の瞳にうっすらと涙が滲んでいるのを見たような気がした。 脈絡もなく胸騒ぎがした。 『だが、おれには逃げることはできない。かと言ってもう進むこともできない。』 ふたたび銃声が響いた。 『そろそろ終りにするか。』 少佐は机の中から拳銃を取り出してこめかみに当てた。 『おれにはできない…‥・。できないんだ。』 絶叫とともに銃声が響いた。 少佐は萌れ落ちるように椅子から転げて床にあおむけにひっくり返った。赤い鮮やかな血が額から顔をつたって床にこぼれた。 薔薇色の血……。 尚彦の蒼い顔が筥子を真直ぐに見つめていた。 拍手が一斉に沸き起った。すべてが終わったのだ。 が、尚彦だけが立とうとはしなかった。 いぶかしんだ団員が彼に近寄った。 「キヤー」女の悲鳴が起こった。 彼女の白いドレスには真っ赤な血がべっとりと付いた。 観客は総立ちとなって騒ぎ始めた。 「尚彦が自殺した……みんなの見ている前で。」 筥子は茫然と眺めていた。目の前で起こっていることがまるで劇の途中のような気がして信じられない。 しかし舞台は血ぬられている。とめどもなく血が溢れてそこら中に血の海になっている。 彼女は蒼白になって気を失いかけた。テレビの画面から血が洪水のようにあふれて居間を血で染めている。 「何があったの? 尚彦さんに何が起ったの?」 彼女は取り乱して電話をかけようと立ち上がった。 その途端、彼女はそこに立ちすくんだ。 艸人がそこに立っていた。目が血走っている。テレビの画面に吸い寄せられたまま視界を失っていた。 しかし、彼女を怯えさせたのはその目ではなかった。 彼女がそこに見たものは、血の海の中で、死んだ息子を両腕に抱きかかえながらも、まだその死をしらない狂った老人の姿であった。 戻る 続く |
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