草の園(4)

中村祐之
イラスト・山口喜造

【主な登場人物】
来栖瓏=演出家。 
室生艸人=老劇作家。 
室生蓮司=艸人の長男、陶芸作家。 
筥子=蓮司の妻。 
尚彦=艸人の二男、役者。来栖に主役に抜擢される。
一人=艸人の三男。ヴァイオリニスト。 室生公成=艸人の弟。数奇者として京都に在住。
室生正円=公成の一人息子。音楽家。来栖と一緒に仕事をしている。
  出奔

 一人(かずと)が出奔した。
 まったく突然に姿を消した。
 前日までそんな気差しさえみせなかったので、家人にはしばらくその不意の失踪が何か作りものの芝居のように思えた。
 一人らしくない粗暴なやり方だった。部屋は散らかせたまま整理もせず、投げ捨てられたままである。
 夜半に桃を食べようとしたのか、白い大皿に一個だけむきかけの実がころがっていた。
 それがまだ水々しさを残しているのが目についた。仕事部屋の机の上には木屑やのみが散らばっていて、細々したものがあちこちに放置されたままであった。
 眠る前には必ず片付けてチリひとつ残さずに掃除されている部屋が、まるで朽ちた廃屋のような異臭を放っている。
 が、一人の寝床だけは純白のシーツに一つの乱れもなかった。
 一睡もせずに何かを考え込んでいる美青年。
 この乱雑さが逆に一人の出奔の決意の固さを物語っているようであった。
 いやな予感がする。
 筥子(きよこ)は一人の部屋を見てそう思った。
 初めのうち、義父も夫も本当に家出をしたとは思わなかった。
 が、彼女だけは一人の心の奥底を垣間見たような気がした。野分けの後のような荒々しく乱れた部屋は、一人の心の懊悩の激しさを語っている。    、
 あの子は本当に出発してしまったわ。
 筥子は心か空ろになるのを覚えた。ずっと前からそんな予感があった。
 一人がこの家の中で虜のような感じになっているのをずっと感じていた。
 若い芽が摘み取られて、そのまま花を咲かせずに終ってしまう、そんな恐ろしさが漂っている。
 蕾みの蜜を飲むのは艸人の溺愛である。
 息苦しい程の艸人と一人の関係を誰れもが咎めようとはしなかった。蓮司はそれを見ようとはしない。
 もつとも例えそれを見たとしても、彼には口を開いて意見することなどできなかったろう。次男の尚彦は、もともと家の中の事情などにはおかまいなしで、自分の家のことすら口にするのを嫌っている。
 彼は兄弟の中で一番自由を求めている。室生家を捨てている。自分の求める美を演劇で表現したいのだ。
 尚彦の濃い眉がそれを物語っている。おそらく艸人の強い意志は二男の尚彦に受け継がれているのかもしれない。
 しかし・…‥           、
 筥子は尚彦の高踏的な考えが、そのうちに大きく崩れ去るような気がしてなら
なかった。
 結局、この家のむせ返るような植物園の花のように温室の中でしか咲き誇れないのではないだろうか。
 例え、一人がいなくなったのを彼に知らせたとしても、今の尚彦には何の反応もないだろう。
 彼には室生家の人間が煩わしいのだ。
 筥子は彼の残忍さを悪いとは思えなかった。彼女も古い因習に縛られた家が崩壊すれは良いと思う時があった。とくに若い一人を見ていると、このままここに置いておくのは酷なことであった。
 その一人がとうとう誰れにも行き先を告げずに家を出たのだ。
 これで何かが変る。
 筥子の中で予感がみるみると脹らんでいく。それがすべて朽ち果てながら闇に飲みこまれていく。寒気が躯を走りぬけた
 「しばらくしたら帰って来るだろう。」
 艸人は、最初のうち一人の真意が判らなかったらしく、まるで意に介さない様であった。しかし、日がたつに連れて頭の中が一人のことで麻痺するようになった
 手先が痺れて筆が持てなくなった。
 ほんの少しの物音にもハッとして母屋にかけて来ることさえあった。
 一度そのあわて様を蓮司に見られてからは頭痛がするといって自室から外に出なくなった。風が窓をうつと一人が帰って果たのではないかと気になったが、それでも部屋から出る気持ちを抑えた。
 渇いている、喉が渇く。
 老人は茶を飲んで喉を潤した。
 しかし、またしても喉が渇いた。
 本を読んでいても文字が掠れてはっきりとしない。夜になるとますます苦しさがつのった。
 灼きつくようだ。
 艸人は喉を掻きむしった。それだけ余計に渇きは痛みを伴って身体中を蝕んだ。
 一人が居なくなってから三週間がたった。
 それでも艸人は失踪届けを出すことを躊躇った。
 ある日手伝いの者が一人の部屋の窓を開けた。夏の暑い格差しを部屋に入れる為である。
 久しぶりに一人の部屋に新鮮な空気が入った。まだ青々としていた新芽がいつの間にか深い練の薫になって薫っている。梅雨の時期には気がつかなかった清々しい息吹きが感じられる。
 筥子は一人の部屋から見える中庭をふと覗いた。
 そこに悄然と立っている艸人と目が合った。
 目は血走っていた。
 筥子は息を飲んでその場に立ちつくした。どうしようもない怒りが老人を狂わせていた。
 おそらく一人が帰って来たと思い飛び出して来たのだろう。
 茶でも立てていたのだろうか、手には瀬戸黒が握られている。
 一瞬手がわなわなと養えたかと思うと黒いものが宙を舞った。
 ガシヤーンという音がしたのだろうか、不思議に筥子には音が聞こえなかった。
 気づいた時には艸人の姿は中庭から消えていた。窓の下に砕け散った茶碗のカケラが鈍く光っていた。
 なんて事を!
 手伝いの女は急いでそれを片付けた。
 艸人がもっとも愛している瀬戸黒である。その数日後、一人の部屋は乱暴にうちつけられた。
 艸人が逆上して町人りの職人に一人の部屋を釘づけにさせたのだった。朝早くから大工がやって来て板で戸をうちつけていた。
 その日、艸人は自室から一歩も出なかった。温度か随分と高く、クーラーを嫌っているので部屋の中はうだるような暑さであった。
 艸人は正座して部屋の中にいた。目を閉じて自分の愚かさを呪っていた。
 釘が一本一本うち付けられる音を問いていた。
 まるで一人を鞭うっているようだ。
 一人の部屋に釘がささるごとに艸人の肉は疼んだ。
 あの子がこんな風な仕打ちをするとは――
 艸人は繰り返し繰り返し呪いの言葉を吐いた。しかし、呪っても尚、なぜ一人が自分を見放すような形で去って行ったのか判らなかった。
 両手の中で育てて来た息子を、今まで誰れよりも自分の事を信じて来た一人がいつの間にか手の中から消えていった。
 老人は急に自分の手が汚れているような気がするのであった。
 その後も一人からは何の連絡もなかった。
 日だけがむなしく過ぎて行った。最初のうちひどく激した艸人も、今はその力も失せたのかひっそりと静まり返って自室に籠もったままである。
 「一体、何処に行ってしまったのでしょうか。」
 「さあね。」
 蓮司は無関心だった。
 「君の方が長く知っているんじゃないかい。」
皮肉な言い方だった。
 「何か熟にうかされたようにじっと考え込んでいましたわ。」
 「まるで中将姫だね。一人は誰れに恋がれているのだろう。」
 蓮司はつぶやいた。
 「誰れか好きな人と何処かにでかけたのでしょうか。」
 「そうに決っているだろう。こんなに突然出て行くならたぶんそうだよ。」
 「もし間違いでもあったら。」
 「もうとっくの昔に間違いは始っているさ。一人が出て行くならよっぽどの事なのだろうから。」
 筥子は、一人が失踪する時に一番愛用していたヴァイオリンを持って行ったのに気がついた。
 一人か死の旅に出て行ったのでないことを悟った。
 あのヴァイオリンに執着している間は生きでいる――。彼の命がまたヴァイオリンであるのを彼女は良く知っていた。
 それにしても一人を激しく揺り動かしたのは何んなのだろう。
 夫の言った中将姫の物語がふと思い起された。
 おそらく一人の所に来る、あの妖しい手紙が原因であるに違いなかった。が、筥子はそれを誰れにも黙っていた。
 その差出人の名前を気づかれるのを自分でも不思議と恐れていたからである。
 一人は何を考えていたのだろう。一体何を見つめていたのだろう。
 筥子は幻の手紙に想いをはせた。しかし、それ以上の推理はできなかった――。

 「お義姉様。」
 突然に家を出てしまって大変心配をおかけしたことをお詫びします。
 今は何む言えません。考えがまとまらずに居ます。とにかく心配はしないで下さい。
 また連絡します。

 しばらくしで一人の手紙が届いた。ひどくインクが滲んだ手紙だった。まるで何かの怒りをぶつけているような乱れた文字であった。
 消印はある地方都市のものになっている。封筒の文字が絶えだえになっている。おそらく雨に濡れながら手紙を投函したに違いない。が、彼女には一人の涙のように思えてしかたがなかった。
 一人のこんな激しい感情を見るのは初めてだった。一体何が起っているのだろうか。
 しばらくして次の手紙が釆た。
 今度は艸人宅になっていた。比較的落着いた文面で書かれていた。

 「ようやく気持ちが落着きました。自分でもどうして突然家を飛び出したのか判りません。
 その事を説明するにはもう少し時間が欲しいと思っています。
 体を少し悪くして、今は起きたり寝たりしています。
 今はある家の離れにやっかいになっています。あまり詳しく書くと、また色々といらぬ心配をかけますのでここでは書かないでおきます。
 心の整理をしなくてはならないんです。それにもつと知りたい事があります。
 ですから東京には戻らないでしょう。体が本詞子になってからゆっくりと考え直したいと思います。
 自分はようやくこの手でひとつの真実を掴めるような気がします。
 それが良い事なのか悪い事なのか、今はただ恐ろしい気がするのです。
 とにかくそちらには戻りません。親不孝な私を許して下さい。
 父上様
 その手紙はまるでずっと遠い所から来たような印象を受けた。まるで別の人間が書いているような気がした。
 怒る力もでなかった。ただ一人が無事でいることに安堵した。
 自分の手の届かない所に一人がいる。しかもわけの判らない事件の渦の中にいる。
 それをどうする事もできないでいる自分に一抹の寂蓼感がした。
 艸人はそのまま一人の手紙を燃やした。
 それが青い鬼火になった。
 この老人に残された儚い仕打ちであった。

 学憎

 一人は水の中を漂っていた。
 顔だけが水面に出て躯はゆっくり浮びながら流されて行く。
 流されて行くのか、あるいは川を上にのばっていくのか判然としなかった。
 不思議と髪の毛は濡れていない。
 手を上げてみると手も濡れていないで、水の粒がキラキラと輝いている。
 自分はどこへ行くのだろう。
 星が闇の中で輝いている。その一つが落ちて果て胸元で白く輝いた。
 小さな微光。
 ああ、これか螢火か――とそれを手に取ろうとした。
 そこで夢から醒めた。
 両手でさわると冷んやりとした夜具に触れた。
 うっすらと目を開けると古びた天井が目に入った。
 ああ、自分は部屋の中に寝ているんだ――一人は急に躯の力がぬけて行くのを感じた。
 ここに来てもう随分と日がたつのに、一人は毎日同じような夢ばかりを見ていた。
 躯が浮遊して流れて行く――そんな夢が一人の胸に重くのしかかって来る。
 外はもう夜が明けているのだろう。夏の日の朝は特に早い。
 しかし、かえって床の中は底冷えしていた。
 ザざーという音が一晩中続いていたようだ。竹薮が近いので風の悪戯なのだろう。
 庭の方で鳥の鳴く声がする。それがずいぶんと騒がしい。
 夜になると赤い目をして飛びまわる鳥がこの裏の林にはいると開かされている。夜が明けるまで恋の相手を探しているらしい。
 一人はこの寺の阿闇梨から開かされて心をいためた。
 まるで自分のあさましい姿のように映ったからである。
 この寺に身を寄せて一週間程たっていた。
 ようやく躯の具合も良くなって、食事も自分でとれるまでに回復した。
 一人の世話は僧房の年少の憎があたっていた。朝に一度、畳と夕方にそれぞれ食事時になると決められたように廊下を伝って来る足音がする。
 物静かに障子を開けると頭を丁寧に下げ、一人の床の近くに食事の謄を置く。そしてまた一礼をして部屋を出て行くのである。
 その間に一言も口をきかない。青々と刈りあげた坊主頭が眩しかった。最初は躯が衰弱していたので、少年僧の仕草に気をとめなかったがこうして見るといか.にも清々しく生きている美しさが感じられた。
 障子の向こう側には良く手入れされた庭が広がり古びた伽藍と良くあっている。禅院には珍らしく枯山水ではなく、荒地を盛りあげた緑の眩い調和をあしらった華麗な庭である。
 永い間門跡だったらしく、一般の人はこの庭に入るのを禁じられていた。
 だからこの庭には人に踏み込まれないままの初々しさがあった。
 しかし、僧堂には厳しい修行に励む僧の姿が見られた。その凛々しい精神が庭の華やかさとはあまりにも対照的である。
 若い学僧にとってこの庭はあまりにも悩ましいことだろう。
 一人はばんやりとそんな事を思った。
 自分とはまったく違った所にあって、純粋に道を求めようとする青年たちに憎
い羨望を感じた。
 『墨染めの衣を着ていると音がどんどんと吸いこまれていって、ついには音が無くなってしまうんだよ。それが恐いんだ。』
 そう言ったのは正円だった。
 正円もこの寺に居た。小さい時に預けられて成長し、ある日すべてを捨てて寺を去ったと開かされたことがあった。
 まだ幼なかったので彼にはその意味が判らなかった。
 しかし、一人は正円の音楽的な才能を尊敬していた。彼の持つ力は無尽蔵だと仲間にも熱心に喋りまわった。同じ音楽家としてこの従兄から教えられたものは多かった。ヴァイオリンの音色に魅せられてから十年にもなるが、その最初の原因が正円に会った時である。
 正円がウィーンから帰って来たばかりの頃であった。
 正円は一人の目をしばらくじっと見つめていた。
 「君には音楽の香りがするよ。」
 と言って後に古びたヴァイオリンをくれた。それが一人の人生を決めたといってもよかった。
 今でもそのヴァイオリンは一人のお気に入りのものであった。後で判ったが、それは刻みやくびれからアマテイの作によるものであった。
 相当の名手でもなかなか持てない名器をボンと少年に贈る正円の心を何か空恐ろしい感じがした。
 しかし、一人は自分の運命を幸福だと思っていた。もしあの時正円からヴァイオリンをもらわなかったら、弱い自分が何を糧にして生きたら良いか判らなかったからである。
 その正円が小さい頃、この寺で(一行欠け)何んの蔭りもなかったのだろう。
 読経の声が聞こえて来る。一人は正円の言葉を思い起した。この寺に居るとなぜ音が消えさるのだろうか。彼には理解できなかった。
 家を飛び出す時に一つだけ持って出たヴァイオリンがきちんと書架に収められていた。それは艸人がある高名な蒐集家から譲り受けたものであった。
 ストラデイヴァリの名器に似ていた。全体にぐつと縦にしまった型、首が蟷螂(かまきり)のようにきゅっとくびれた糸巻。いかにも高貴な雰囲気をただよわせる。
 しかし、一人が一度弦を引くとまるで違った音色がした。まるで人の歌声のように張りがあり艶がある。生きているものの声のようであった。何十人、何百人の歌声がまるでその中に閉じ込められているようだった。
「このヴァイオリンの原材は香木を使っているのだろうかな。何か香りがするん
だが…」
 艸人は流石に鼻がきくのかすぐに疑惑をもった。が、一人があまり艸人の前で弾かなくなったのでその話もそれっきりになった。
 が、一人はその妖しい秘密を知っていた。
 血の臭いだ。
 このヴァイオリンは血の音色を奏でる。この中には男と女の血の悲劇が幽閉されている。一人は蒐集家から由来を開いてみた。しかし、彼もその事を知らないでいた。ただ高いというだけで買い求めたという。
 が、それの愛称が「ルタレツィア」と呼ばれていたことは判った。
 一人はその意味がどうあれ、それを奏で(一行欠け)た。時として官能の炎で燃え上る自分を感じるのだった。
 しかし、今はそれを取り出す気分にはなれなかった。
 そのヴァイオリンの悪魔のような情熱が彼を忌わしい気分にさせるのである。
 そうだ、あの人に会ったのもその頃だった。
 一人は昔を思い出そうとした。
一人か来栖瓏会ったのが、丁度そのヴァイオリンをもらった頃であった。
 ある日、テレビ局の番組である楽劇のソリストとしての仕事をもらった時があった。それは正円の紹介であった。
 一人は弾く方よりもむしろ制作する方が好きであり、どちらかと言うと人前に出るのをためらっていた。しかし正円は一人の腕を高く評価していた。
 彼は楽曲のソリストとして劇のテーマの演奏をすることになった。
 まだほんの学生に過ぎないと思っていた他のミュージシャンは一人の容姿に思わず息を飲んだ。
 それはまるで美貌の修道士が礼拝堂で奏でる天上の楽曲のようであった。天から美しい花がいっせいに振りそそいで、あたり一面が春の香りに満ち溢れた。
 演奏が終ってもしばらくは、まわりの者はそのまま動かないで余韻の中にとり残された。
 その時、スタジオの一角で拍手が起きた。
 背の高い、彫りの深い男が鋭く一人を見ていた。昔、何処かで見かけた男だった。
 彼は近づいて一人の手を取り自分の両手に包みこんだ。
 「素晴しい。なんて素晴しいんだ。俺の劇にまったくあっている。」
(一行欠け)
 その時、一人はこの胸の厚い男があの高名な演出家であるのを知った。
 まるで嘘のようだ、
 一人はあやうく倒れそうになる自分をかろうじて抑えた。
 長い髪が領と顔の半分を隠しているが鳥のように鋭く光る深い瞳が自分にじっとそそがれているだけで頭がクラクラとした。
 それを悟ってか来栖は一人の躯を包みこむようにささえて、一口とろけるようなコニャックを含ませた。
 一人はその時の印象が豊潤な酒の酔いで朧になってしまっているのを惜しんだが、彼の「ルクレツィア」を取り上げてこのヴァイオリンは惨劇の臭いがする、血の味がすると語ったことだけははっきりと覚えていた。
 それから来栖からは何度か手紙が来た。
 若い一人の心を捉えるにはあまりにも扇情的であった。豊潤な酒がひどく人を夢魔に誘い込むような、底知れぬ淫奥さがあった。

 隠れ家

 一人はあの日の手紙を思い出した。
 「苦しい。今とても苦しい。早く来てくれ。一刻も早く俺のそばに釆ておくれ。」
 一人は陶が高まった。
 あわてて家を飛び出した。少しばかりの金ともしもの事を考えてヴァイオリンを抱えた。
 その後、どこをどう歩いたのか、どうやって京都までたどり着いたのかまった
く覚えていなかった。
 手紙に書かれた住所だけを頼りに、京都から山科の奥に近い隠れ家に着いた。
(一行欠け)
 暮方の夕焼けの中に強い西日で紅にそめた神殿が現われた。石だけの家。石柱と切り石で積み上げられた荘厳なる神の館。およそ人の感情の入る余地もない威厳があった。
 一人はその前に思わず立ちすくんだ。
 石の塊のような家が時間の中から一人の心を威圧した。
 それでも一人は勇気をだして一歩一歩館に足を潜み入れた。
 カルナックの神殿を模した石の回廊が迷路のように曲り折れ重なっている。種々の動物神が壁に刻まれ、キバをむきだしている。
 ようやく待合室に通された。
 アビス(牛)・ウト(蛇)・ネタベト(ハゲタカ)などの神像が一人を見降している。
 一人はここに来たのを後悔し始めた。来栖がファラオのように絶対的なものであるような気がしはじめたからである。自分が異にはまった小動物のような悪い予感がした。
 突然、石の扉が開いた。
 無表情であるが人をさすような瞳が鋭く一人をいちべつした。
 薄いヴェールを身に纏っただけの姿で厚い胸や腰があらわに見えた。
 「よく釆てくれた。君を待っていたんだ。」
 一人は来栖を見た途端に妖しい視線に惑わされた。躯から一度に力が脱けて手足の感覚が無くなった。
 導かれるままに一人は館の中に入っだ。不思議と躯が浮遊しながら部屋から部屋へと足がかってに動いて行く。
 いくつの部屋を通りぬけただろうか、来栖は牡羊頭の座像の前で止まった。
 「俺はこうやってここに居る時が一番自分を見つめることができるんだ。これが俺の部屋だよ。」
 来栖は風のように身を翻して扉を押した。
 オシリスと呼ばれるその部屋は、ガランとした石畳の部屋で窓は一つもなく、わずかに床の近くに足元を照らす灯がついているだけであった。
 まわりの壁面には一人が思ってもいない淫らな男たちの姿態が描かれている。彼らは一様に二枚の羽を冠にいただいた神の仮面をかぶっている。
 「上を見て御覧。」
 一人は天井を見上げて思わず感嘆の声をあげた。
 天井のある部分が一面の星空になっている。天井を吹きぬけにしてそこに透明のガラスを貼っている。星の光が降りそそいで青白く輝いていた。
 「俺は暇な時はここにこうしてじっとしている。明方になると東の空から明星が登って来る。そうなるまでじっとこのベッドに寝そべって待っているのだ。」
 「何を待つのですか。」
 「復活だよ。」
 来栖の声には抑揚がなかった。透き通った水のように冷たく部屋に響いた。
 その口調からはあれ程人を畏怖させるすさまじい罵声が嘘のように消えていた。
 「復活ですか?」
 「そうだ。俺の心を洗い清めてくれる時を待っているんだ。」
 一人にはそれが何を意味しているのか判らなかった。しつとりとした夜の闇が忍びよる中で、自分が生きているのか死んでいるのかを確信することさえできなかった。
 来栖は一人の蒼ざめた頼をそっとなぜた。
 「これを飲みたまへ。気分が長くなるだろう。」
 彼は手の切れそうなカットグラスに透明な酒を注いだ。
 一人はそっと口に含んだ。とても一口では飲めない強い酒だった。グラスの底に星屑が光った。
 「この部屋に入ったのは君が初めてだ。今までここには誰れも入れなかった。俺は初めて君を見つけた時思わず目を疑ったよ。自分で自分を抑えられない程激しく興奮した。
 君を見ていると自分の邪悪な魂が清め
られるような気持ちになるんだ。」
 彼は苦しそうな表情で一人を見つめた。
 「だから君に手紙を出した。出さなくてはおられない程苦しんだ。」
 「何が苦しいんですか」     、
 一人は来栖をできれば助けたかった。
 「苦しい理由……フフフ。」
 来栖は自嘲ぎみに笑った。
 「もつと後になったら判るだろう。俺の心の苦しさがな。」
 羊角の中の酒を来栖は飲みほした。
 「血だよ。血の臭いなんだ。君の持っているヴァイオリンのような惨劇の声が聞こえるんだよ。」
 「……………」                                     ヽ
 「血のコンチェルトだ。俺に今必要なのはそれさ。」
 来栖は次第に興奮していった。彼の声は無気味に回廊に響いた。
 それはまるで今目醒めた死者が生者を呪う言葉のように聞こえた。
 「そうだ今日は君に良いものを見せすやろう。
ちょっとした面白いパーティーだよ。」
 来栖は石壁の一つを押した。ひんやnとした外気が頬をうった。
 来栖の髪毛が一瞬舞い上った。
 一人はその横顔を見た。
 黄昏の帝王であるオシリアとはおそとくこんな風貌をしているに違いないと思った。
 来栖は広い中庭の見えるバルコニーに一人を案内した。すでに酒で酔っている一人の頭にもそこがスフィンクスに囲まれた浴場であるのが判った。
 そこには裸身の青年たちが互いに躯をマッサージしながら躯を鍛えていた。
 滑らかな肩や尻のふくらみを持った肉が汗に濡れて輝いている。
 一人はその美しい光景になかば恍惚とした。が、その時一人は思わず声をあげ
た。
 そこには思ってもいない青年がいたの
だった――。

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