草の園(1)

中村祐之
イラスト・山口喜造

 1

 まだ春には間があるというのに、この部屋には息が詰まる程の馨しい香りが溢れていてさながら熱帯林を思わせた。
 このところ気管支を悪くしている室生老人には、この部屋を通るのは苦痛であった。むっとする植物のくさいきれに混じって、黄色に斑紋状の花房をつけた洋蘭が、床といわず窓といわずに置かれている。月の光のせいでよけいにこの花の巣窟をおどろおどろしく見せていた。
 その黄色の花房とは対照的に床に敷かれている印度更紗のカバーを無造作にかけたダブルベッド、ほどのよく年代のたった籐の椅子、螺鈿をあしらった脚の長い机、壁にはイスファハンの宮廷の工匠の手になるという犀の細密画が掛けられている。
 これらすべての色彩と香りと調度が、この背の高い老人の胸を詰まらせるのには充分であった。
 それでも老人は、夜の闇の中を音をさせないように、この部屋をこっそりと通り抜けなければならなかった。室生家の当代の当主であり、なおかつ戯曲家として並ぶもののない大家として知られる室生艸人(そうじん)が、こんな深夜に家人に隠れて忍んで行く様を余人が見たら、ダンディストとして自他ともに認めているものからは、ずいぶん離れた姿に映ったことだろう。
 庭続きの南側のベランダに温室を作ろうと言い出したのは、二男の尚彦であったが、まだ中学の生徒であった息子の言葉を、そのまま鵜呑みにして、小さな硝子貼りの温室を造り、この子のために自室の天井を吹き抜けのす磨(すり)硝子貼りにしたのは、ほかならぬ自分であったことを思えば、今さらに臍をかむ思いがするのだった。
 尚彦の部屋はだから半分が温室で半分がサンルームのような部屋になった。長ずるに従って温室はいつの間にか庭の半分を埋めるようになり、カラディウム、アントリウム、ガーデニア、ブルメリア、ヘリオトロープなどの花々が咲き誇り、中には植物園でも珍しい大輪の花房をつけた蔓草が上から垂れ下がり、まるでステンドグラスのように光の中でとけあって美を競い合っている。
 尚彦もやがて髭を伸ばすようになり、それに連れて本がなくなり、野球道具がなくなり、天体望遠鏡がなくなり、代って無数の柑橘類の小鉢が見事な代赫の実をつけて並べられ、部屋の真ん中には天蓋のついた大きなベッドが置かれた。赤、代赫、黄、深緑、青紫、薄桃色、銀、これらが混じりあって、一つの色彩のシンフォニーを奏でていた。
 艸人は尚彦のめちゃくちゃな異国趣味を嫌ったが、それでも夜この部屋を通る時は、時々聖餐式に来たような気分になり、やはりどこか尚彦の人柄を感じることもあった。
 尚彦は自分の部屋に人を入れるのをひどく拒んだ。それは他人に自分の世界を見せたくないという強い意志からではなく、むしろ色彩の王国を愛する己の姿に、丁度、少女のはにかみに似た、それに近いものから来ていた。
 ある時、まだ彼が少年の面影を残している頃、艸人が温室にいる息子に声をかけたことがある。直彦は花房を一つとってその蜜を口に含んでいた。その瞬間、父の眼に向き返った彼の顔は、自分の秘部を見られた少年のように、頬を染めていた。
 艸人は、この鳶の眼をした息子の顔に浮かんだ“瞬間の戸惑い”を理解できなかった。その戸惑いが、他の二人の兄弟にない強い槍のような強さで父に反発していた青年には、むしろ似つかわしくない仕草であったからだ。老人はいつもこの部屋をすり抜けて、三男の部屋に出かける時にふとこの思いにとりつかれるのであった。
「薫りにあたったのかな」
と、最初は思った。
 事実、眩暈に似た微熱の渦が、眼前のものをかすかに震えさせた。口の中が異常に喝いた。
 家人を起して水でも持って来させようとしたが、ずっと以前に妻をなくした後は、長男夫婦と三男の一人、そして手伝いの女だけが住んでいるだけであつた。
 あいにく長男の蓮司は京都の窯場に筥(きよ)子を伴って出かけていた。
 少し前ならば、離れの奥にある木戸からぶらっと外に出て、夜の街に誘われるままに、一晩帰らないこともしばしばあった。
 しかし、香をやるようになってからは、それも鬱陶しいものとなった。
 第一、女の肌に付けている香水の臭いが、彼をそこから遠ざけた。髪といわず、襟足、爪の先まで彼女たちは臭いをまき散らしていた。まざった空気の中では、艸人は一瞬とも気が休まらなかった。却って神経が疲れ、しばらくは楽しみにしている香合の会も開けなかったくらいである。
 歳のわりには肩幅も広く、重量感もあるがっしりとした体躯をしている彼にしてみれば、こんな些細なことで躯に変調をきたすことはないと思っていた。
 彼は男子の理想の体型をギリシャの男性像に求めた。美は絶えずシンプルな定型の中にあるという哲学を苦い頃から信奉していた。
 スパルタの重戦闘団の服を着た彼の若き日の写真が璧に粘られている。この鈍く、黒褐色の光った楯と鈍い穂先を待った槍をまとつた闘士こそ、艸人の理想の男性の姿であつた。だから若い頃から自分の躯には人一倍の手入れを怠らなかった。そして三人の息子たちに
もそのことを強いた。
 歳をとってもこの思想は変らなかった。時々、自分の裸の胸を見ては盛りあがった筋肉に満足した。
 事実、彼は時々出入りの若い職人たちと格闘技の試合をたわむれにした。上半身、裸になった男同士が首筋に力瘤を作りながら組み合う姿は三人の息子達に激しい印象を与えた。
 けつして血を見ることのない遊びに近い競技であつたが、それでも時には縺れあって外傷をする青もでた。そんな時に、石の上に落ちた血を見て一番怯えていたのは三男の一人であった。
 この幼い貴公子は、すぐに父親の腰の後に隠れながら、おそるおそる口唇から血を出している苦い獅子の倒れた姿を眺めていた。
 この頃では、とんとそんな逝びもしなくなった艸人だったが、なぜちょっとしたことでこうも躯が火照るのか、意味が解らなかった。胃薬を少し入れた調香がどうやら疲労した躯にきいたのはあるとしても、それにしても最初の二〜三日は、どうにも自分を抑えきれない程興奮した。
 そんなある夜、外の空気を吸おうと思って離れから中庭に出た。
 その時老人はふと馨しい香りを感じた。
 アクアリアスの香だろうか……
 いや、それともちょっと違う臭いが月の光の中でかすかに漂っていた。
 香りは、一人の部屋から流れてきた。
 この青年に艸人は人並ならぬ愛情を注いでいた。日の中に入れても痛くない程の可愛がりように、まだ学生の頃、二人の兄はひどく嫉妬した。それは単に父親が末っ子を溺愛する感情を超えたものを持っていたからであろう。二人の兄はそれを鋭敦な神経で喚ぎとっていたのかもしれない。
 しかし、父親の心の奥底は、歳のわりには早熟であった兄たちにも、本当の所は解らずじまいであつた。
 『なぜ一人のこととなると、こうも心が急ぐのだろうか』と、老人にも不思議な気がするのである。
 確かに、上の息子たちにも同様に、艸人は父として公平に愛情を注ぎ、また男子としで相応の厳しい仕付けをして来たつもりであった。母親が居ないせいもあり、その教育は多分に子供たちとの間に距離を作ってまっ感もある。が、艸人はそれでもしょうがないと思っていた。
 なかでも末っ子の一人には一段と厳しく教育し、体罰を加えたことも兄たち以上のものがあった。
 しかし、この子は父のぶ厚い手で打たれる時も、まるで意にかえさない風に、謎めいた微笑を浮べていた。口唇の端が切れて血が頬を伝って流れていても、それを止めようともせずに、父親の顔を見つめていた。
 逆らうわけでもなく、咎めるわけでもなく、その目は豊穣の泉の如き深さで父親の顔を見つめていた。
 『この子の日を見ていると気持ちが落着く』
と、老人はよく思った。
 自分の書斎に一人だけはよく呼び入れて話こむことが多かった。
 が、それ程までに愛して、また父親に従頼であつた一人が、この節とんと顔を見せなくなつている。
 この家では互いに何日か顔を見合わせないということが、けつして珍らしいことではない。家族一緒の食事は、子供たちが生まれてこの方ほとんどといってよい程なかった。
 艸人は歳をとるに連れて、ますます偏食がこうじて、食事をとらなくなり、あまりに強い調香をするものであるから、臭いの少ない食事を好んだ。草粥の料理と梅干、それに白子乾しというのがこの所、艸人の食事であったから、若い息子たちと食前酒をくみ交わしながら、語りあうなどということはまったくなかった。
 長兄が結婚してからは、京都の分家によく寝泊まりしていた。窯に火を入れる季節になるとこちらには全然帰って釆なくなつたので、ますますこの家では顔を合わせる理由は減って来たのである。
 自然と未の息子にも、こちらが会おうと言わなければ、別段会う理由もなかった。
 風に吹かれる芒(すすき)のように一人は、父が怒ればそれに合せ、父が自分の趣味の話をすれば、艸人が話に飽きるまで淡々と聴いている。その間は、問われなければけっして自分の考えをロにすることはなかった。
 それゆえに、艸人はこの末っ子がいつでも自分の懐に居るものと思っていた。
 しかし、この頃では逆に、ひょっとしたらこの子が自分と一番違い所に行ってしまうのではないかという不安が、胸の中にわき上って来るのだつた。
 そんな想いも手伝ったのだろう。
 その夜、艸人は一人の部屋の香りに自然と脚が向いていった。
 部屋は牡蠣(かき)のようにしっかりと口を閉ざしていた。
 庭側にまわると窓からうっすらと灯が洩れていた。大人しいといってもやはり青年である。持て余した躯の火照りが、部屋の外まで感じられた。
 香りは、一歩足を踏みしめると強く漂い、ま−た一歩前に出ると急に掻き消えた。しかし、窓に近づくとやはり先程の香りの源は、この部屋の中からであった。
 中は整然とした感じで、およそ尚彦の部屋のような強烈な臭いを放つ物はなかった。ただ一人が唯一鹿味で作っているヴァイオリンの荒塗りをするニスの壜が並べられていたが、異臭を嫌う父を思ってか、きちんと蓋が閉められていた。事実、まだ光沢をだす塗りをはどこされてない小兎の裸を思わせるヴァイオリンが三つばかり壁に掛けられていた。
 細く開いた窓から老人の目が部屋の中を競いた。
 薄暗いベッドの上で、こちらに背を向けた裸身の青年の姿がおばろに浮んだ。
 一人は白い便箋に書かれた手紙を熱心に読み耽っていた。
 目を移すと、璧にイタリア施行に出かけた時、クレモナで買ったという型の良いヴァイオリンが無造作に掛けられている。グァルネリ家の手になる古い名品だと聞いている。その下には小さな工具柵があり、大小の鑿(のみ)が掛かっている。二間続きの向こう側の部屋には樫の木の一枚板でできた工作机が置かれ、白い木屑が、かすかな芳香を放って放置されていた。机の向こう側には薬棚があり、ほとんどがニスの小壜であろうが、百種頬以上もあるだろうか。
 いつか、艸人の部屋に珍しく勢(いきお)いこんで入ってきた一人が、出し抜けに古くさい壜を目の前に突き付けた。
 「お父さん、これ見て下さい。やっと手にいれましたよ。」
 「なんだ、それは。」
 原稀を書いていた手を休めて、艸人は息子の手の中にある奇妙な物を見つめた。
 「ニスですよ。しかも曰くつきのね。これで素晴らしい音色のヴァイオリンが出来ますよ。」
 そう言って壜の蓋を開けた途端、部屋中に松脂の臭いが拡がった。
 突然、艸入は壜を叩き落した。
 一瞬、壜は床に落ちたものの少量が一人の手に触れただけで、零れずにすんだ。
 それでも純度の高い油脂の臭いが部屋を染めた。
 「馬鹿者。ここをどこだと思っているんだ。ああ、嫌な臭いだ。早く持って行け。」
 老人は鼻をねじ曲げて、一人を追払った。
 艸人の書斎は調香室を兼ねていた。だから絶えず調香する時以外は、部屋を無香の状態にしておいた。
 例えどんなに好きな花があっても、彼は書斎に持ちこまなかった。だから今のような狼藉には我慢がならなかった。
 花もなく薫りもない部屋は砂漠のそれに近かつた。
 『そういえばあの時、一人は笑っていなかった……』
 老人はひどく悔いた。
 それにしても、あの壜の中味が漆(うるし)でなくてなによりだった、と老人は安堵した。
 一人の白い指先を漆で赤く腫らしては、と心配したからだ。一人の身に一点でも染みができたら、と考えるだけでもおぞましいことだった。
 老人は、いつの日かこの秀麗な三男を完璧な人間として創りあげてしまっていた。悲しいことにその尊大な考えが、神々が創りだした個人の宿命に背いていることに、気がついていなかった。

 青年はベッドの上で寝返りをうつた。
 わずかな振動でまたもや老人はアクアリアスの香りを嗅いだ。
 青年は手紙に夢中であった。
 灯が近いせいか、もともとあまり濃くない髪の毛がさらに亜麻色に光り、うすばんやりとした翳を漆喰の壁に映していた。
 まるでそれは、厳格な僧房で壁に向かって自らの青春の小さな誤ちを必死に懺悔している若い学僧のようであった。
 それ程までに一人は一枚の和紙に書かれている手紙に夢中であった。
 それにしても、と老人は訝しんだ。
 この小さな部屋の何処からこの馨しい香りがして来るのだろうか……。
 目を皿のようにして隙間から中を見廻してみても、あの嫌な香りを放つ小壜の他は何もない。しかし、人を幻惑させるなやましい微香は明らかに一人の部屋の中から漂って来る。
 一人は手紙を読み終ると、綺麗にたたんで仰向けに寝た裸の華奢な胸の上に置いた。
 深い嘆息が青白い口唇から洩れた。
 老人は、この一人の深い嘆息が、まだ人間の性を知らぬ未青年の嘆息のように思えた。まだ肉体の修羅が、人をその中で狂わせるという苛酷な悦楽を知らない若い躯を羨望した。
 一人の手が、だから自然に長ズボンのベルトの下にのぴて若い樹液の夢を軽く愛撫しながら眼を閉じて、わき上って来る蜜の熟度にしばし酔っているのを、老人は美しいと思った。
 その時であった。
 細い華奢な躯のわりに、形の良いファロスの先から、溢れる蜜が翔びだしたその時、老人はひどい眩暈におそわれた。
 その眩暈は、頭の芯に直接感じられるような、幾種もの高貴な香りを混合して、一度に嗅いだような、強い刺激であつた。
 艸人はしばらく全身が小きざみに震えて、躯を支えられず、よろけてその場に倒れた。
 無数の牡孔雀が金色に輝いて天空に消えていく幻が見えた。孔雀の尾羽で全身をなぜられているかのような浮力感があった。五感が瞬時に触覚に変っていた。
 一人の悦楽の声が孔雀の鳴声とまごうて聞こえた。強い香りはこの時止んだ。
 老人は闇の中に取り残された。
 不思議なほど静かな余韻であつた。
 闇の中に、若い一羽の牡孔雀がいた。孔雀は闇の中でしきりに青緑の尾羽を広げて、自分の美を誇るように首を伸ばし、じつと老人を見つめていた。
 アクアリアスの臭いは消え、代ってあのアルカディアの原野に咲くという赤紫菫の小花から採った媚薬の香りが激しく鼻をついた。
 『この薫りは何んだ』
 老人は空虚な意識の中で自問した。鼻腔の奥でただ臭うというのではなく、肌を刺す臭い。熱帯樹の下に自生する植物の中には、こんな香りの花粉を飛ばす奇花があるとは聞いていた。が、多くの噂は古い大航海時代の文献を頼りにしているだけで、誰も実証しているわけではない。
 老人は立ちあがると、再び一人の部屋を覗こうとした。しかし、部屋の灯は消されて、寝静まった闇が見えるだけであった。振り返って中庭を見ると先程の若い孔雀の姿もなかった。
 雨の、樋(とい)を打つ音が大きくなった。
 春を告げる雨なのか、肌にかかる水滴も心なしか暖かかった。
 艸人は雨の音の中で茫然と立ちつくしていた。この小庭の石畳の中に幽閉された昔のよ
うな老いが、かつてドンフアンと噂された男の化粧を落した。かきあげた白髪が柳の枝のように捩れて顔にかかるのもかまわずにいた。
 『この脱力感は何んであろうか…』
 艸人はまだ痺れている裡の奥で考えた。
 宴の後でも、また次の華燭を求めて彷徨い歩くことも厭わなかった自分の体力に対する漠然とした不安がこみ上げて釆た。
 『歳なのか……』
 老人は、始めてこの所、自分に春めいた秘事が少くなっていることに気がついた

戻る 続く