ハナコ参上!

                                   
桜 春助
    異次元SFなのか、それとも石川淳ばりの幻想小説なのか、判断がつかぬまま保管していた10年以上前の投稿作品。本サイト立ち上げを機会にアップしました)

 出されたビールは栓が抜かれていなかった。コップを忘れられることは時にあるけれど栓を抜いていないとは珍しい。初めてだ。
 「どうしたの栓が抜いてないよ」と僕は愛想よく言った。
 ウェイトレスは途端に込み上げる可笑しさを精一杯にこらえて、「アラ、マ、うっかりしておりました」と慌てて戻って栓を開けてくるかと思ったら、全然違った。まるで異物を見る如くにしげしげと僕の顔を覗き込んだ後、やっと一言ポツリと言った。
 「栓は御自分で開けてください」
 其れだけだった。僕が飲みたい僕のビールをそのままにして奥へ引っ込んで仕舞った。歯で開けろとでも言うのか。映画で見たことがある。
 「変なウェイトレスね」とモモコは面白そうにしていた。
 モモコは僕の教え子である。彼女を自分の担任になったクラスで初めて発見した時、『コレダ』と心ひそかに決するものがあった。天は二物を与えず、で彼女の其の美貌に比べると成績のほうは大分見劣りする。といって馬鹿という訳じゃない、勉強を面倒くさがるタイプだ。だから来週の学期末試験の特別コーチをしてあげるということで呼び出した。親も先生から特別に授業を見て貰えるということで決して否とならない。男として生まれたなら一度は女風呂に入ってみろ一度は女子高教師をやってみろだ。いや本当に聞きしに勝る秘密の花園、この世の極楽、言う事なし、男冥利に尽きる。
 「ねえ先生」とモモコはティーカップを目の所まで上げて見せて笑いをクククと噛み殺した。額に掛かる髪がそよ風を思わせる揺れ方をする。「この前ハナコったらね、レモンティーを此うしてレモンと一緒に飲み込んでレモンを鼻から出してみせたのよ」と口を大きく開けて飲み込む真似をして見せた。
 「ハナコか」。誰にでも一芸はあるものだ。ハナコは印象の薄い生徒である。とっさには顔を思い浮かべられなかった。個人的関心はない。全然。ハナコが鼻から何かを出して見せてくれたとしても其れは其れとしてだ、其れよりも僕のビールである。ウェイトレスは他のテーブルには忙しく飲み物や料理を運んでいるのに僕のビールには少しも関心を払おうとしない。僕のビール。でも驚くだろうな鼻からレモンの輪切りが出てきたりしたら。他にも何かできるのかな。
 「ハナコのお父様は社長なのよね」とモモコ。
 「うん」と僕。其の通り。しかも町工場の親父さんじゃなくて一部上場である。うちの学校はたとえばモモコの父親が某有名会社の常務をしているようにやれ重役だオーナーだ弁護士だ医者だというのが多い。どこがいいのかちょっと不思議に思う時がある。よっぽど傍目がいいらしい。内状の一端でも知られたら半分くらい転校してしまうかも知れない。だけど親の線を狙うとしたらこれからは会社や地位ではなくて、どれだけたくさん土地を持っているかで計った方がいいだろうな、とは思っている。
 「はじめはこの子は一体ナンダ、ってねブキミに思ったけれど――」
 「うん、うん」と僕はうなずきながらも実はウェイトレスを捕まえる機会をじっと伺っていて、モモコの話は上の空になっていた。僕のビールがどうにかなって仕舞う。少しずつ温まっていくのか細かな泡が筋を描いている。できたら冷えたのに取り替えてもらいたいものだと算段していた。そして栓を開けてもらわなくてはならない。
 「それが今もってブキミなのよね」と言ってモモコはケラケラ笑い出した。「誰だってきっと圧倒されるわ」
 「君、僕のビールの栓が抜いてないんだ」やっと捕まえる事ができた。さっきとは別のウェイトレスである。「ビールが大分温まって仕舞った様だから、ついでに冷えたのと取り替えてくれないか」
 「お客さま、いま何とおっしゃいましたから」又だ。又してもウェイトレスは僕を無遠慮に覗き込む。僕が異物であるかのように。ただし今度はむき出しの好奇心を顔一杯に浮かべていた。
 「だからビールの栓が抜いてないと言ってるんだ」僕は何回同じセリフをくり返しただろうか。なんだか目の前のビールと兄弟であるような気がしてきた。
 突然、「僕は自分で開けるよ」と、隣のテーブルから子供の大きな声が僕の耳に飛び込んできた。見ると先ほどまでそこら中を走り回っていたガキである。前を通るたびに足を差し出してやりたい衝動に駆られたものだ。「そうだぞタロウ自分の栓は自分で開ける、此れはとても大切な事なんだ」と父親がさも満足そうな顔をしてうなずく。「そうよパパの仰る通りよ」母親なんだろう、こちらを横目にして「でないと自分の栓も開けられない大人になって仕舞うのよ」と言う。そして視線を戻してネエと意味ありげにうなずいて見せた。「ほらボクは自分で開けたよ」とガキが高々とジュースの瓶を掲げて見せる。えらいわねー、と母親は頭を撫でる。本当に足を差し出してやればよかった。
 ワーという歓声が奥のほうで起こった。凄い声量で店全体がグラグラと揺れた。というとまた大袈裟になるけれど、僕にはそれくらいに聞こえた。見ると顔の一部が盛んにピョコピョコと出たり引っ込んだりしている。何人かがこちらを窺っているのだ。「うそー」とか「信じられない」とか言ってる声が僕の所にまで聞こえて来る。
 「先生お願いですからどうか落ち着いてください。これにはきっと何か訳がある筈ですから」とモモコはひどく心配げな顔をしていた。僕が人殺しでもやりかねない、と言わんばかりである。モモコは「実はあたし」と言いながらバッグからハンカチを取り出した。しかしそれに続いたのは「アラ」という驚きの声であった。ハンカチと一緒に何か珍しいものを見つけたらしい。コトリとテーブルの上に置く。見れば花柄を象ったピンク色の栓抜きであった。モモコは途端に吹き出して「丁度いいから使ってください」と僕のほうへ差し出した。心配したり驚いたり吹き出したりと際限がない。
 「君まで何を言い出すんだ」と僕。一瞬、奥に居るのはクラスの生徒たちであるのかも知れない、と疑う気持ちが起きた。イタズラが大好きなのである。しかしそんな筈のない事にすぐ思い当たった。来週の試験に無関心でいられるものは多くない。モモコを除けば後は誰だろう誰も居ないではないか。居るとしても片手で足りるのは間違いない。其れは絶対だ。「事はビール一瓶の在り方の問題じゃないんだ。僕の人生の根幹をとわれているんだ」
 「先生お願いです」とモモコ。僕に訴える目がまた印象的だ。フラッと思わず吸い込まれそうになる。「落ち着いてください」
 大丈夫さ人殺しなんかしないよ。絶対に。僕は先生なんだぞ。ゆっくりと立ち上がると奥へ確かめに向かった。と、其の時である。物凄い衝撃が僕を襲って元の席へ飛ばされて仕舞った。旨くしたものだ。そしてこれは誇張ではなく本当に店全体が揺れた。店どころか大地そのものが大きく揺れているようであった。しかも地震みたいな悠長な揺れ方でなく、もっと激しかった。そして何かを破る音が辺り一杯に響いた。
 「ハナコ! やっぱりあなたなのね」とモモコが叫んだ。「さっきからどうも様子が変だと思っていたのよ」
 何時の間にかフロアの真ん中にハナコが立って居た。しかもハンティングの格好ではないか。「私がハナコです。只今参上しました」と言うと辺りをぐるりと見回した。身体の輪郭の所々から盛んにパチパチと火花が散っている。「先程こちらを失礼しました折にユラギが感じられました。ただ生憎にも手の離せない事がございまして大分遅れましたが取り急ぎホセイに戻って参りました」と言ったところでモモコを認めた。「其処に居るのはモモコね」ハナコは僕にも気づいた筈なのに何も言わない。チラリと見ただけだ。まるで君臨しているものが下僕を見るがごとき趣であった。「相変わらずの御発展ぶりのようね」
 「なんとかの勝手でしょう」とモモコ。
 「いい機会だからあんたの事を皆がなんて言っているか教えてあげましょうか。歩く独占欲って言ってるのよ」
 「そう言ってるのはあんただけよ」とモモコ。
 「おいおい」と僕。それまで口をアングリと開けたままでいた僕は、二人の掴み合いでもしかねない剣幕にやっと正気に戻れた。僕は二人の教師である。難しい年頃なのだ。本当に。だけど難しくない年頃があるとも思えないけどね。
 「まあまあ先生、ビールが温まって仕舞いますわ」とモモコはビール瓶を持ち上げると、片手を添えて僕のほうへ向けた。「まずはお一つどうぞ」栓が何時の間にか抜かれている。あのピンクの花柄の栓抜きは消えていた。
 「これはすまないね」と僕はコップを差し出した。やっと飲める事になった僕のビール。「君はなかなかいい手付きじゃないか」。
 「まあ嫌ですわ先生」とモモコはシナを作る。
 「ハハハハハ――」と僕。しかしビールよりももっと肝心な事があるのに思い当たった。「そうじゃない、そうじゃないんだろハハハじゃないんだ」笑っている場合じゃない。僕はコップをテーブルの上へドンと置くと勢いよく立ち上がった。しかしハナコはもう居なかった。何事なのかと店中の視線が固唾を飲んで僕を見守っている。僕一人が騒ぎ立てているとでも言わんばかりの視線ではないか。隣のテーブルの栓抜き一家ももう栓抜きの蘊蓄を垂れようとしない。
 「ハナコだったらもう何処かへ行っちゃったわよ」とモモコ。「ハナコの後をライオンが追い掛けて行ったから今頃はアフリカなんでしょう」とこともなげに言ってのけてくれる。
 この世界というものはより安定した次元から見ると陽炎のごときものであって極めて不安定なものであり、所々で常に歪みが起きているんだそうだ。栓抜き騒動も歪みによるものだった。陽炎といっても鉄より確かなものなんだと。この歪みに気がつく人はごく稀で分けてもハナコはその能力に長けていて少しはその歪みを利用できるんだ、とモモコは言う。しかし僕がそう解釈しただけでほんとはモモコは全然別の説明をしたのかも知れない。どうもよく判らない。つじつまも合ってないように思う。モモコにしてもハナコの受け売りに違いにア。
 「理解する事よりも感じ取る事のほうが大切だ、て先生も授業で言っていたでしょう。あたしも全く同感よ。言葉なんて結局は理解した気持ちにさせてくれるだけで、何も残らないと思うの」とモモコ。
 「うん、うん」とうなずいて見せる僕だがそんな事を言った覚えなんか全然ない。なんだか一人異次元に迷いこんだみたいであった。モモコまで常のモモコではなく中身だけ別人に入れ替わったみたいに思えた。だけど改めて注文したビールはちゃんと栓が抜かれていて、訳もなく感動して仕舞った。僕のビールは程よく冷えていて栓が抜かれていてコップもあった。僕はやっとビールにありつけたのである。
 「むしろハナコが歪みの元なの」とモモコ。モモコとハナコは幼稚園へ通う頃からの仲なんだそうだ。判らないものである。いや判らないのは二人の仲ではなく二人の存在そのものが不可解に見える。ハナコはあれで来週から始まる試験に受かるだろうか。僕は彼女の教師である。
 「ハナコの事はほっておきましょうよ」とモモコ。「それよりもこの前ねケイコったら――」
 「ちょっと待ってくれないか」と僕。今度はケイコだって。「外へ出て散歩でもしよう」少し頭を冷やさないと何もかもひっくり返ったように混乱している。突然ドアが開いて、男が機関銃をもって入るなり辺り構わず乱射したとしても僕は驚く事さえ出来ないだろう。それにこの店に何時までも居ると、ふと、振り向いた時にライオンが大きな口を開けていた、なんて事にも成り兼ねないではないか。
終わり

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