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金達寿『番地のない部落』

 金達寿(1919〜1997)は、10歳で来日、日本大学芸術学部在学中に既に小説を発表しているが、本格的な作家活動は戦後。1970年頃から日本と朝鮮の古代史に注目、「日本の中の朝鮮文化」を発掘する作業、著述に没頭し、1980年以降は創作活動は行っていない。この彼の古代史研究は、発表当初から「杜撰である」ということで、専門家からは認められていないが、司馬遼太郎らが「宥和的」(ウィキペディアの表現)であったこともあって、世間的には、「在日の古代史研究家」というイメージが強いが、実際には小説家としての才能が際立っており、1958年に『朴達の裁判』で芥川賞候補になったが、もはや確固としたプロの作家であるということで受賞が見送られたというようなこともあった。
 以上が金達寿に関するウィキペディアの総括だが、「小説家としての才能が際立っている」というのは、私の感想だ。
 そもそも私の金達寿に関する知識はまったく世間的なもの、つまり、「在日の古代史研究家」というイメージしかなく、では、彼の古代史に関する著述を読んだ事があるかというと、雑誌の対談等における断片的発言を除きまったくないといった、。つまり、「知識」と呼ぶ程のものですらない、「本当に名前だけなら知っている」程度でしかないのだが、先日、『番地のない部落』という彼の小説を読んで、そんな感想をもったのである。
 彼の古代史の著作を知らずに、「小説(創作)が一番」などと書くのはちょっと無責任だが、それだけ、彼の小説に感心したというわけだ。

 『番地のない部落』は、フリーマーケットの会場で50円で買った『昭和二十四年度・戦後主要作品集』というアンソロジー本に含まれていたもので、ということは、本作執筆は昭和22、3年頃、つまり、金達寿30歳少し前頃の作品だろう。ウィキペディアによると、彼の作品は、「朝鮮的なるもの」、「民族的なるもの」を軸としたテーマを骨太な文体で描いたものが中心なんだそうだが、『番地のない部落』は、確かに文体は「骨太」だが、「朝鮮的なるもの」は、相当に揺れている。というか、その「揺れ」を描いたのだろう。(ウィキペディアの《「朝鮮的なるもの」、「民族的なるもの」》も、「確固とした民族的アイデンティティ」の追求という意味で書いているわけではないかもしれないが。)
 しかし、この『番地のない部落』は、ネットで検索しても、私の読んだ『戦後主要作品集』くらいしか出てこない。多分、全集には収められているのだろうが、それでも目にする機会は、一般的にはかなり少ないと思われるので、この際、ストーリーを含めて紹介してみたい。

 『番地のない部落』の主人公は、尹チョムヂと呼ばれる六十過ぎの老人である。「チョムヂ」とは朝鮮語で「おじいさん」という意味で、したがって、60を過ぎた尹チョムヂが“おじいさん(チョムヂ)”と呼ばれていることは当たり前のように思えるが、尹チョムヂの“チョムヂ”は彼がおじいさんになる前からの愛称だった。
 尹チョムヂの本名は尹天直(チョンジク)であるが、本人が無類の――いわば、“天然”のお人好しであることから、朝鮮人なら誰でも習う漢字練習帳の『千字文』の冒頭に出て来る有名な四字句、「天地玄黄」にひっかけて、天地(チョンヂ)と呼ばれるようになった。その「チョンヂ」が、訛って、やがて「チョムヂ(おじいさん)」となったのである。
 尹天直は生まれついての小作人だったが、主家がつぶれ、やけになった主人から、「金をやるから思いきり遠いところへ行け」といわれ、その言葉通りに、主人からもらったわずかのお金で海を渡り、さらにはるばる北海道にやってきた。
 尹天直は開墾工事の飯場の飯炊きになったが、冬になると、人夫達は一人去り二人去りして、最後に、飯場頭の朴一徳まで妻子を残していなくなってしまった。
 飯場には尹天直とアジモニイ(お内儀さん)と子供二人だけになってしまった。アジモニイは、尹天直に、「夫は有り金全部もって出ていってしまった。もう帰ってこない」と言った。
 ところが数カ月後、朴は突然帰ってきた。そして、アジモニイの炬燵に入って丸くなって寝ていた尹天直を見つけると、朴は、釘を四方八方に打ちつけた丸太を振り上げ「この野郎、殺してやる」と言った。
 あわてたアジモニイは、「何もなかったんだから、だんなに謝んなさい。さもないと本当に殺されちゃうよ」と尹天直に言った。尹天直は「冬の蛙」のように固まって、朴の暴力とアジモニイの裏切りにじっと耐えた。
 その後、尹天直は、朴に「馬鹿やろう」と日本語で怒鳴られながら、朴夫婦と飯場で生活するようになったが、やがて冬の飯場を捨てて南に移動する列車の中で、アジモニイは赤ん坊を産んだ。朴は、名前をつけてくれと頼むアジモニイに、「太郎とでも一郎とでもつけとけ」と言い、結局、赤ん坊は太郎という名前になった。

 太郎は大きくなるに従い、朴夫婦の他の子供達と異質な容貌、性質を見せるようになった。
 ある夜、尹天直は、太郎が母親に、自分の名前が何故、「太郎」なのか激しく問いつめているのを板壁越しに聞いた。

 「よう、どうしてだよ! 姉ちゃんが順伊で、粉伊がやっぱり伊のつく伊だろう。それで兄ちゃんが容植で、月埴がやっぱり植という字のつく月植じゃないか。それでどうして俺だけ太郎なんていう金太郎みたいな変な名前なんだよ」
 「うるさいね、あたしに字の事を聞いたってわかりゃしないんだよ。」
 「嘘だい! 朝鮮人のきょうだいというのは、きっと同じ字が一つつくんだぞ」

 尹天直は、この親子の会話を震えながら聞いた。
 やがて太郎は「不良」になり、街のチンピラたちのボスになって、日本の警察も手につけられないような存在になった。そして、長かった激烈な戦争も終わった。

 朴一家と尹天直は朝鮮に戻る事にしたが、問題は太郎だ。朴夫婦は、太郎を朝鮮に連れて帰る積もりはなかったが、太郎本人がどう考えているか心配した。
 しかし太郎は案外あっさりと、自分だけ日本に残る事を承諾し、朴一家と尹天直が船に乗り込む下関港まで荷物をもって見送りにやってきて、最後に、「じゃ、みなさんさようなら。お達者で」と言って、くるりと背を向けて帰っていった。
 尹天直は、それを見て、朴とアジモニイが自分に向かって何か叫んでいるのを上の空で聞きながら、太郎の後を追った。しかし、尹天直は太郎を見失ってしまった。
 かつて朴一徳一家が住んでいた町、Y市(多分、横浜?)で、尹天直(今は尹チョムジで通っていたが)は、毎日毎夜、太郎を探した。そして、ある夜、遂に、赤い羽織を羽織った女と歩いている太郎を見つける。尹チョムジは、涙にかき暮れる目で太郎の前に両手を広げて立った。
 太郎は、尹チョムジはとっくに朝鮮半島に戻ったと思っていたので、驚いて、「チョムジは今、どこに住んでいるんだと」言った。尹チョムジは、「豚の谷」と言った。
 「じゃあ、そこに帰って寝ろよ」
と言って、太郎は尹チョムジに背を向けた。
 その太郎に、女が聞いた。

 「あれ、だれ?」
 「あれ、って?」
 「あれって、あの人のことよ」
 「あれか、あれがオレのおやじだよ」

 「あれがオレのおやじだよ」という一言を聞いた尹チョムジは子供のようにうれしくてたまらない気持ちになった。

 尹チョムジは、朴一徳とわかれた後、「豚の谷」にある《民主青年同盟》に仕事を紹介してもらい、同盟の事務所のある「豚の谷」で暮らしていた。尹チョムジは、ここで生まれて始めて生活のよろこびを知った。
 その豚の谷部落の尹チョムジの住まいに、太郎が一度だけやってきたことがあった。その時太郎は、「がちゃがちゃうるせえところだな」と尹チョムジに言った。隣の部屋で同盟の青年たちが終夜議論し、金日成将軍を讃える歌を歌っていたのだ。
 尹チョムジは、太郎が自分の暮らしのことを心配して「うるせえな」と言ってくれたのかも知れないと思いつつ、でも、それはよくないと思った。夢に燃えて議論し、歌を歌う青年たちの生き方と、日本のやくざの生き方とどちらが良いか。
 こうして、尹チョムジは、必ずしも隣で青年たちが歌う歌を好きだというのではなかったが、「ある代理意識」に促され、それらの歌をつぎつぎに覚えては歌っているのだった。

 ……という話。

 「ある代理意識」というところに(何の「代理」なのか、はっきりしないが)大きな「含み」を持たせている感じで、それ(含み)をどう理解するかで、この小説の受容の仕方も決まるわけだが、具体的には、それは読者個々人にまかせられている。しかし、そのことについて、右であれ左であれ、自身の意見を開陳することにあまり意味はなく、むしろ、「含み」それ自体に、その幅の大きさに文学としての大きさが比例していると考えるべきだろう。そして、『番地のない部落』におけるその「大きさ」は、相当に大きいように思う。
 ところが、こういう「大きな文学」は、日本にはなかなかない。
 たとえば『番地のない部落』の冒頭の一、二頁で、作者は「チョムジ」という呼び名の由来を丁寧に説明しているわけだが、こうした「名前の故事来歴」を語るだけで、立派な「文学」なのだと私は思う。(旧約聖書なんか、誰某の子、誰某の子、誰某の子……と、ほとんどそれだけだし)実際、「チョムジ」へのこだわりが、大きくなった太郎が、「朝鮮人のきょうだいは必ず同じ字をもっているんだぞ」と、母親を問いつめる場面へつなぐ伏線になっている。
 しかし、日本では「名前」は、いい加減でもよいことになっている。これは、日本のどうしようもない歴史的現実なのだが、そのために、「大きな文学」がなかなか成立しない。
 江藤淳は、『夏目漱石』で、日本の文芸評論家は小説作品を論じる際、面倒な事に、それがちゃんと「小説」になっているか否かをまず見極めなければならないという。いわば、日本の評論家は「余計」な労力を要求されているのだが、その原因の一つに、この「名前」に関する無原則が関係しているのではないかと思う。

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