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映画の研究 1.5

月光24号 掲載


残像説の誤謬

ところで、「映画」とは、リュミエール兄弟が試写会で手品師メリエスを驚かせたように、静止画像から「動きのイリュージョン」を発生させることそのものが売り物のショーであったわけだが、イリュージョンがイリュージョンであることを示す矛盾が必ずしも矛盾ではなくなったことがわかった今となっては、「動きのイリュージョン」からイリュージョンを取り払っても構わないかもしれない。実際、心理学の教科書等をみると、動きに対応する視覚である「運動視」は、実際に動いている時に動いて見える「実際運動」と実際には動いていないのに動いて見える「非実際運動」の二つに大別されているが、「実際運動」は研究対象にまったくなっていないのである。
それはさておき、「非実際運動」には、風に流される雲の動きによって月が動いて見える「誘導運動」、暗室内で呈示された静止光点をしばらく観察すると物理的運動がないにも関わらず、静止光点が不規則に動いて見える「自動運動」、一定方向へ動く対象をしばらく見た後、静止した対象を見るとそれが直前に見ていた運動対象と逆方向に動いて見える「運動残効」などがあるが、その一つに「仮現運動」がある。
仮現運動のもっとも簡単な例は、踏み切りの警告灯や、電光掲示板で、複数の光点が順繰りについたり消えたりすることで、一つの光点が動いているように見える現象を言う。特に点滅の時間間隔が約六〇ミリ秒くらいだと実際運動の知覚と区別のつかない「滑らか」な運動が知覚される。これをφ現象という。映画はこれを利用したもので、簡単に言うと、一連の動きを連続撮影して得られた静止映像を、撮影時と逆のプロセスで映写すると、「実際運動の知覚と区別のつかない滑らかさ」で動きが再現されるのである。
映画撮影用カメラの基本構造は要するにロールフィルムを使う小型スチールカメラを高速かつ長時間連続撮影が可能なようにしたもので、シャッターを開けた瞬間にフィルムの回転を静止させて露光させ、その後シャッターを閉じている間に1フレーム分、フィルムを送るという動作を繰り返す。こうして撮影した飛び飛びの連続的静止映像を「間の欠けた映像」すなわち、「間欠映像」といい(旧字体で「間歇映像」と書く。以下こちらの表示を使用)、これを撮影時のプロセスを逆にたどって映写すると撮影した対象が自ら動いているように見えるのである。
間歇運動による動画再生の原理は一九世紀の初め頃、イギリスの医師ロジェによって発見され、ついでベルギー人数学者プラトーが簡単な動画装置を発明したが、絵を動かしてさて何をしたらいいかというと、結局子供のおもちゃぐらいしか考えつかなかった。それでも技術は着々と進歩し、「映画」の出現まで、後は「絵」の代りに「写真」を用いればよいだけになったが、一秒間に二十数コマにおよぶ高速連続撮影は非常に難しく、実現にほぼ半世紀の時間がかかっている。このような映画前史についてのあれこれは別稿に譲るとして、何故飛び飛びの静止写真から「動き」のイリュージョンが得られるのかという問題をコマとコマとの間の空白を「残像」で繋ぐことで動きが再現されると説明するのが、有名な「残像説」である。視覚の残像というのは、簡単にいえば「ものを見たあと、その形が消えてもしばらく目に残っている現象」のことで、映画の「動く絵」はこの現象を利用したものというのだ。この残像説を映画の美学的研究で知られる岡田晋は次のように書いている。

最初のものが取り去られても、残像が留まっている間に同一物を同一位置に与えるなら、われわれはそのものが取りかえられたと気づかないし、第一のものと第二のものの間に、わずかな形の違い、位置の変化があれば、眼は第一のものの形が変った、位置が動いた、と錯覚する。これと同じように、少しづつ違う画像を連続的に見せる時、われわれは動かない画像に動きの幻覚をつくり出す。……(「映画の誕生」、『映像』、岡田晋、美術出版社)

見る人は、残像効果のせいでコマ1がコマ2にすり変わったことに気づかないが、実はコマ1とコマ2は少しずつ形なり、位置なりが変わっているので結果的にそこに変化を、すなわち「動き」を見る(錯覚する)ことになるというこの説明は、なんとなく「残像現象」と「仮現現象」を組み合わせたような気がするが、いずれにせよ、我々は残像効果のせいで変化に気づかないが、結果的には残像効果のせいで変化(動き)を見ることになるというのであって、なんか変である。
そもそも、それが動いていようが動いていまいが、それを見るということは、それをそこに見つけるということなのだ。メルロ=ポンティが、「像は独特なやり方でそこに表現されている人物に肉体を与え、その人物を出現させるのであって、それはちょうど降神術によってテーブルにテーブルの上に精霊を出現させるのにも似たことなのです。実際、成人でも、ある種の像や写真を踏み付けて歩くことはためらわれるでありましょう」(『眼と精神』、滝浦静雄、木田元訳、みすず書房)と言っているように、像は、実物の「準現前」(サルトル)として、そこに生じる。
映画で言えば、「動く像」は、コマ1がコマ2に切り替わった時、それと同時に1から2への変化が同一物の変化としてそこ(スクリーン)で生じるのであって、我々はそれをそこに見つけるのである。そこ以外、たとえば脳内で「動き」が再生されるわけではない。もちろんだからといって脳が不要なわけではない。ただ脳をコンピュータにたとえる限り、「対象をそこに見つけること」は不可能なのである。(補遺10)
かえってわかりにくい説明になったかもしれないが、話をすすめる前に、残像説についてもう少し考えてみたい。
映画の登場にあたって重要な役割を果たした幾人かの先駆者のうち、ジュール=マレーというフランス人がいる。
マレーは元来生物学者で、ダーウィンの進化論を「証明」するために、人間を含む全哺乳動物の「動き」の分析を試みた。人間の「動き」の特徴と他の哺乳動物の「動き」の特徴をくらべれば、人間を頂点とする進化の道筋が明らかになるだろうと考えたのである。そこで、まずデッサン技術に優れたプロの画家を雇い、モデルが見せる様々な「動き」をスケッチさせたが、これには画家の主観や癖が混じるので、発明後半世紀を経て性能が著しく向上していたスチールカメラに技術的改良を加え、一連の「動き」を連続写真として写し止めることに成功した。(補遺11)
それは一九世紀末のことだったが、当時の技術水準は今我々が想像するよりもはるかに高く(走る馬の分解写真で有名なマイブリッジは、最終的に四千分の一秒という高速シャッターを実現している)、分解写真の精度はぐんぐん上昇して、やがて、「一つ」に繋がってしまった。そこでマレーは、白い線をサイドに入れた黒い全身タイツをモデルに着せて撮影を続行した。つまり、モデルの身体の厚みを白線一本の幅にまで狭めたのであるが、もちろんこんなことをしても撮影機の性能がさらに上がれば、やがて白線はまた「一つ」に繋がってしまうだろう。言ってみれば、マレーは「飛んでいる矢は止まっている」、「アキレスは亀を追い越せない」で有名なゼノンのパラドックスに直面していたのである。
ゼノンのパラドックスは、史上もっとも広く知られたパラドックスであるが、その理屈をここで簡単に説明しておこう。
ゼノンのパラドックスには数種類あるが、基本的にはみな「無限問題」を扱っている。たとえば、「飛んでいる矢は飛んでいない」の例で説明すると、射手が放った矢は、的につくまでに的と射手の中間地点(仮にM1とする)を越えねばならないが、それを越えてもM1と的との間の中間地点M2を越える必要がある。それを越えても、中間地点M2と的との間に新たに生じた中間地点M3を越える必要がある。さらに…という具合に、矢は的に到達しない限り、矢と的の間に常に「中間地点」が挟まることになり、なおかつ矢はこれをすべて越えなければならない。しかりしこうして、矢は的に永遠に到達しない。つまり、「飛んでいる矢は飛んでいない」ことになる。
もちろん、これは事実とは異なっているので明らかに誤っているのだが、それは矢と的の間が無限に分割可能であるとしたことに原因がある。つまり、矢と的の間の距離が無限に分割されるとしたら、矢と的の間に無限数の「中間地点」があることになり、矢はそのすべてを通過しなければ的には到着しない。しかるに、無限数ある中間点をすべて通過するには無限の時間が必要となり、矢は永遠に的に到達しないことになる(補遺12)わけだが、この詭弁性は、「残像説」にもあてはまる。何故なら、コマ1とコマ2の間に残像が挟まることで「滑らか」な動きが再現されるとすれば、挟まるコマ数が多ければ多い程完璧な動きの再生につながるはずだが、実際には――高速度撮影を進めれば進める程「動き」が鈍くなるように――運動は凍結されてしまうはずである。

補遺10 「それをそこに見つけること」は、あらゆる生き物が行っていることだがコンピュータ(人工知能)にはできない。それは何故か、また、どうやって生き物はそれを成功させているのか、これを「フレーム問題」という。人工知能の進歩に伴い、特に最近、話題に昇ることが多いので概略を説明しておく。
『現実世界で人工知能がある問題、たとえば「マクドナルドでハンバーガーを買え」のような問題を解くことを要求されたとする。現実世界では無数の出来事が起きる可能性があるが、そのほとんどは当面の問題と関係ない。人工知能は起こりうる出来事の中から、「マクドナルドのハンバーガーを買う」に関連することだけを振るい分けて抽出し、それ以外の事柄に関して当面無視して思考しなければならない。全てを考慮すると無限の時間がかかってしまうからである。つまり、枠(フレーム)を作って、その枠の中だけで思考する。だが、一つの可能性が当面の問題と関係するかどうかをどれだけ高速のコンピュータで評価しても、振るい分けをしなければならない可能性が無数にあるため、抽出する段階で無限の時間がかかってしまう。これがフレーム問題である。自然界に発生した知性(人間の知性など)が、どのようにこのフレーム問題を解決しているかはまだ解明されていない。』――以上はウィキペディアからの抜粋であるが、ウィキペディアがこれを「知性」の問題としているのには異論がある。知性をどう考えるかで変わるが、動く生き物はみな、それなりのやり方でフレーム問題を解決しているのだと思う。

補遺11 もちろん、マレーは自分のしていることが「映画」につながることに気づいており、マイブリッジの撮った走る馬の連続写真を見た時、「これで美しい動画再生装置を作ることができる」と言ったという。山っ気のあったマイブリッジはこの言葉を伝え聞いて映写機を自作し、欧州巡業を行ったりしたが、科学者であることを誇りにしていたマレーは、シネマトグラフの大成功後も、「我々が肉眼でもっともよく見られるものを見てなんになるのだ」と言って、「映画」に関心を示すことはなかったという。

補遺12 「無限を数え切ることはできない」は、「無限は可能性としてしか存在しない」と言い換えられるので、「可能無限」と言い、アリストテレスが最初の提唱者と言われる。「可能無限」を採れば、無限は実質上考慮の外に置かれるが、これに対し、「無限を数え切ることはできる」とする立場を「実無限説」と言う。「実無限説」は無限を数学的に扱うことを目的としたもので、その結果無限の奇妙な性質が次々に明らかになった。現代数学では「実無限説」が主流となっている。この実無限説をとると、ゼノンのパラドックスはいまだに完全には解けてはいないことになる。